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2009年12月23日水曜日

14才のセイラー:親権と子どもの自立

 今年の夏以来、オランダのニュースに時々登場しては社会に議論を醸し出しているラウラ・デッカー。両親の船の上で生まれ、生来のセイラー(ウー)マンとして育った14才のオランダ人少女だ。
 昨夏、13歳だったラウラは、単独で世界一周航海をすると決め、本人も熟練した航海経験のある父親は、彼女に同意して、学校に長期欠席の申し出を入れた。もちろん、就学義務の履行に厳しい学校はこの依頼を受け入れられなかった。いずれにせよ、ラウラの野望は、史上初の最年少世界一周航行を果たすことだ。訓練は十分、スポンサー初め、支援グループの準備も怠りなく、というところであったらしい。

 しかし、オランダの裁判所は、未成年のラウラが単独で公開することに対して、不許可の結論を出した。理由は、成長期にあるラウラにとって、精神的にも肉体的にも極限の状況に一人で立ち向かわなくてはならない可能性のある単独航海は、将来、取り返しのつかない危害をもたらす可能性がある、というものだ。その結果、ラウラの行動は、以後、ユトレヒトの青少年保護組織の管理下に置かれることになった。

 ラウラの単独航海に、宣伝効果を期待して申し出たスポンサーは少なくない。そんな中で出されたオランダの司法権の決定は、基本的に、未成年者に対する公的保護の立場からのものだった。宣伝収入をもくろんでいたスポンサーには落胆の結果であったことだろう。

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 子どもの教育(成長)の第1義的責任は親権者にある。しかし、その親権者が、子どもの健全な発育を保護しない、あるいはできない状況にある場合には、公的機関が子どもの発達の権利を守らなくてはならない。この原則が、ラウラをめぐる一連の議論に流れる考え方であった。そして、この原則自身には何の誤りもない。
 しかし、親の判断をどこまで認めるか、それに対して、公的機関が、いつ踏み込むべきか、その境界線を引くことは難しい。いずれの判断も、最終的には、現行の法に照らすしかないわけであるが、それでも、法の適用基準は、司法官や関係の専門家に任されることで、今回のような例では、議論が噴出しかねない。議論の行方によっては、将来、法が修正される可能性だってある。

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 スポンサーや野次馬の大きな期待をよそに、16歳までは、単独航海は認められないとの結論を受けたラウラと父親。これで事態は一件落着だったはずが、先週になって、今度は、ラウラが行方不明となり、父親が警察に届け出て、数日後、カリブ海のオランダ領シント・マーティンで見つかるというニュースが流れた。ラウラがどうやってその島まで来ていたのかについては、詳しいことは報道されていない。しかし、8月以来、青少年保護機関の監督下にあったはずのラウラが行方不明になったことで、ラウラの両親よりも、公的な機関の方が、いくらか慌てふためいている感じはある。ラウラの保護責任を持っていたはずが、保護できていなかったからだ。結局、担当機関であるユトレヒトの青少年保護ビューローは、来年の7月まで、ラウラを、現在同居している父親から引き離し、しかるべき保護機関のもとで監督する、という結論をだした。

 もちろん、この結果にはまたもや議論がおこり始めている。ラウラはもとより、父親も納得しない。昨日の新聞には、今回の結論にラウラは「打ちのめされている」と告げる手紙が、ラウラの祖父母から送られてきた、とも報道されている。

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 世の中には、中毒患者、犯罪人、児童虐待など、子どもの健全な成長を見守ることができない親が実際に存在する。そういう親に代わって、子どもの発育を保護するのは、国や社会の役割であることには間違いはない。だが、今回の場合、父親は、ラウラの航海技術を育て、見守り、そして、本人の野心を果たしてやろうと支援したまでだ。それが、子どもの成長の障害になるという判断をつけるのは難しい。
 確かに、子どもの就学を義務付けられているのは父親だ。世界航海のために、学校に長期欠席届けを出した父親には、この義務に対する不履行という問題がある。これとても、果たして、学校が子どもの成長に最善の場であるのか、と議論する親がいないわけではなく、ここでも、親権と社会の保護義務の間には軋みがある。



 オランダの教育や子育てを、外から眺めている私の目には、さらに、もう一つ、気になることがある。
 
 現在のオランダ社会の子育ては、とにかく、子どもたちを一日も早く『自立』させることにある。それは、親の意識としても、社会の制度としてもそうだ。ラウラの場合、その意味では、オランダ社会の子育ての、突出した典型例であったとも言えなくもない。本人も、親も、ともに、ラウラの自立に向けて今日まで来たのだろうし、それをとやかく言う人も、おそらくいなかったのではないか。それが、突然にして、『成長に対する身体的、精神的な危害』などと理由づけられ、これまで、知らん顔だった公的な組織が、自身ではもうすっかり精神的には自立を遂げたと思っているラウラに、『保護』を申し出てくる、というのもどんなものか。ラウラにも父親にも、何か、偽善的で取ってつけた温情に見えるのではないか。そもそも、自立などというものは、18歳という年齢がくれば、みんな同様に果たされるというものなのか、、

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 ラウラをめぐる一連の議論は、親権と、未成年者に対する社会(国家)の責任の関係、さらには、子どもの自立とそれを見守る社会の関係、など、日本においても議論されるべきいろいろなものを問いかけているように思う。

 (公立)学校という場が、いじめや校内暴力という、それこそ、子どもの発育にとって危害にあふれた場になってしまった日本。また、子どもに『自立』することよりも、ひたすら社会への同調を強い、子どもや親たちの繰り言、主張を抑え込んできた日本という社会。そんな日本に、『親権とは何か』『自立とは何か』という議論は、今まで、公に真剣に論じられたことがあっただろうか。

 日本だったら、ラウラの事件のような問題が起きたとしたら、いったい、どんな議論になっていたことだろう。ふと、イラクでの日本人人質事件とその後の議論が脳裏に浮かぶ。
 

1 件のコメント:

Shin さんのコメント...

先日新聞記事で裁判所の判決をみたものの、こちらの解説がなければ、この事件の意味や重要性を理解することができなかったと思います。