2012年2月22日水曜日

「意見の違いを尊重する」のがシチズンシップ

2010年に平凡社から出した「オランダの共生教育」には、その後あちこちから反響があった。多分、日本の教室でも応用できそうな具体例が多かったこと、それらが、「なんだこんなことなのか」というような目からうろこのようなものが多かったからではないかと思う。

そんな中で、特に紙数を割いて紹介したのが、この10年余りオランダで成功を収めてきたシチズンシップ教育プログラム『ピースフルスクール・プログラム』だ。ユトレヒトの教育サポート会社が市の補助金を得、ユトレヒト大学の研究も兼ねて開発したもので、現在、全国に600校余りの学校が採用している。ユトレヒト大学の研究者とは、2008年に、駐日オランダ大使館の主催で私が開催の準備をしたシンポジウムに招かれたミシャ・デ・ウィンター教授だ。この分野では世界的に知られた研究者だ。

この『ピースフル・プログラム』については、日本の読者からも関心が高く、ある組織が日本版を作りたいと全編翻訳を依頼してきた。プライバシーの保護のため、組織名は挙げないが、賢明な判断だし、私自身、この種のシチズンシップ教育を日本社会に取り入れることは急を要する課題であると考えて、拙著の中でも紹介していた。

いずれにしても、翻訳事業が始まったことで、オランダ語の堪能な日本人女性6名に下訳を依頼し、私自身が監訳作業を行う、という作業が、今年前半の課題となった。下訳をしてくれる女性たちからは、
「自分が小学校でこういう授業を受けていたら苦労しなかっただろうに」
「小学生のわが子に対する言葉のかけ方がわかるようになりました」
などと、訳の作業そのものが楽しくて仕方がない様子だ。
そうして、書くいう私も、プログラム全編をくまなく読む機会を得られて、またしても、ため息・吐息、日本との格差をどうすれば縮められるだろう、と正直言って途方に暮れる。

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こういう私たちの気持ちを少しでも多くの方に共有していただくために、「オランダの共生教育」の中ではあげていなかった授業の例、その一端を紹介してみたい。

これは、小学校4年生(オランダではグループ6)の第6回目の『ピースフルスクール」の授業の様子だ。


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子どもたちは、いつものようにサークルになって短い協働ゲーム[勝ち負けのないゲーム]をして授業に入る。

先生は、「さあ、今日はみんなで何を学ぶのでしょうか」と言いながら、40分程度の授業の流れを説明する。そうすることで、子どもたちが、受け身にではなく自立的に授業に参加できるというわけだ。

今日の授業のテーマは『意見の違いを尊重する』

ははーん、日本人だって、教科書に書かれた「字面」だけなら、わかっているさ、というだろう。とりわけ、有名大学の入試をすり抜けてきたエリートなんぞは、「ふん」と鼻にもかけないのかもしれない。でも、この授業は、それを、体感させるための授業だ。

教室には、先生が用意しておいた「賛成」「反対」「わからない」という3枚の大きなカードが教室の3か所に貼られている。

そして、まず、子どもたちに、何かの「意見表明」をグループを作って考えさせる。

「学校にはケータイを持ってきてはいけない」
「体育は男の子が得意な科目だ」

などといった、身近で他愛のないものでいい。

こういう、子供たちの意見が分かれそうないくつかの「意見表明」をリストに並べ、一つ一つ、子どもたちに「賛成」「反対」「わからない」のいずれかを選んで、そのボードがかかった場所に移動する。

もちろん、それまでの4歳からの授業の中で、「意見が違うこと」は「どちらが正しいとか正しくないということではない」ということを子どもたちは学んできている。ここでの授業は、そんなことより、自分自身が持っている意見が何かに気づくこと、その理由を自分の言葉で説明できることだ。だから、先生は、それぞれのボードに移動する子どもたちのうち、進んで手を上げる子供たちに「論拠は何か」と聞くことになっている。

また、これには唸るのだが、、、指導書の中には、先生に対して、多くの生徒が別の場所に行っているにもかかわらず、一人ででも自分の意見に従って多数に逆らって自分のボードを選ぶ子を「ほめよ」と言っていることだ。

こんな授業を、いったい、日本のどこの小学校がやっているだろう?
日本の、せめて「公立」小学校が、すべての日本の子どもたちに、こうしていてくれていたら、今頃日本のマスメディアの脆弱さに絶望することはなかっただろう、、政治家の議論が感情的な怒声のやり取りになるという醜悪さは避けられたことだろう。

「論拠」を子どもたち自身に発言させ、それに他の子どもたちが耳を傾ける。授業では、他の人の「論拠」を聞いて『意見を変えることは可能である』ことを子どもたちが徐々に学ぶことを目指しているという。
相当に意識の高い日本人ですら、他人が自分の意見に意義を差し挟んでくると「凝り固まったように」感情的になり、独善的な態度を取り始める人は少なくない。そして、それは、異なる意見の交換から、さらに次のレベルの新しい見解が生まれるという議論をすることによって得られる合意形成ダイナミズムの障害になる。

このわずか40分の授業の中で、わずか9歳の子どもたちは『意見の違い』は、育ちや信条、観点の違いなどからくるもので、違いがあることこそが大切、違いによって自分を外から見直すことができる、と学んでいる。


指導書は、教員たちに、機会をとらえて色々なことについての子どもたちの意見を尋ねよ、意見に違いがあることのプラス面を強調せよ、と教えている。

子どもたちへの授業のまとめは、下記の様に至極単純で明快だ。


  • 意見は違うことがあります。
  • 誰でも自分の意見を持つ権利があります。
  • 自分の意見は変えることができます。
  • 私たちは、一人ひとりの意見を尊重します。


と。

何でもかんでも教科書の字面だけで勉強させ、その結果を多肢選択や「線でつなぐ」いとも安易なテストで「できた」「わかっている」と済ませてしまう日本の学校。

そういう学校で、長年タテマエを頭に詰め込まされてきたエリートたちは、こういう文章を見ても驚かず、「当たり前」のことではないか、というのかもしれない。「できない子」とレッテルを貼られてきた子供や大人は、もとより『意見』を持つことさえしない。

だが、実は、そういう、教科書至上主義の文化が、子どもたちと大人とを現実の世界から遠ざけてきたのだ。社会に対して、熱くなれない人々を生んできたのではないのか。

学校は、「社会に出る前に、そこで生きていくための練習をする場だ」とミシャ・デ・ウィンター教授は言う。

これも、さもありなん、、、と日本人もうなづくことだろう。

けれど、日本の多くの人が「社会」と考えているのは、産業化時代の「企業社会のことでしかない。そこには、労働運動の権利もなければ、働けない人の権利もない。差別のない社会、環境との共生、仕事と家庭生活のバランスのある生き方、などは、日本の学校がこれまでイメージしてきたものではない。

最近、オランダを訪れた日本の教育学者がこういった。
「やっとよくわかりました。日本の学校は社会人として企業人の姿しか目にない。でも、オランダの学校は、社会人とは、『市民』になることなんですね」と。

ことあるごとに「立場」「らしさ」が前面に来る日本の社会。一市民であるより、OO会社の社員であることが家庭生活にも地域社会でもすべてに重くのしかかってくる社会。人間はまず、何よりも平等な「市民」であること、それを教えなければ、やがて、大人社会は「立場」と「らしさ」で責任をすり抜ける人たちばかりになる。


2004年以来伝え続けてきたオランダの教育に対する関心がようやく広がり始めている。そして、何が日本の教育にかけていたのか、それに気づき、皆、驚愕している。たった一人で、驚愕・狼狽しなくてもよくなっただけ、状況は好転してきた。

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『維新の会』とやらが、いかに「新しくない」かということだ。世の中の人気取りの「甘言」を振りまき、外国に目を向けず(グローバル時代のユニバーサルな価値観、異文化共生などに関心はなく)、日本の未来へのビジョン完璧にたたきつぶす勢力だということに、いったいどれだけの人が気付いていることだろう。







2012年2月6日月曜日

新時代の教育を垣間見る

いやあ、かなり興奮しています。
 先週、ある団体の視察の一環で、久しぶりにハーグ市の教育サポートセンターを訪れました。全国でも指折りの優れたサポート機関です。何かと日本からの視察があるたびにお話を聞かせていただいているので、専門家の方たちとも顔なじみになり、私の活動にも理解を示してくださっています。

 二つ、大変印象的な最近の動きです。

1.CITOによる「学力」発達モニターに加え、子どもの発達段階をスケールにした『観察』型の発達アセスメントが、ネット上の入力で、しかも、かなり細かい分析をしてくれ、さらには、安価で市販され始めています。これは、0歳から、つまり、乳幼児期からの、個々の子どもの発達を、6か月ごとのマイルストーンに書かれた指標を基にして、観察を通して記録・入力し、子どもの発達特性を可視化する、その結果、指導法を発達段階に対して適合させる、子どもの能力のプロフィールを知ることで、発達に対する刺激の与え方を分化させる、などのために使えるもののようです。
 確かに、これまでCITOが行ってきたモニターは、かなり努力はされているものの、やはり、学力的な能力に傾いていましたが、この観察型のアセスメントを補完的に使うことにより、より子供の適正に寄り添った指導ができるようにしているのではないか、と思います。

2.IPC(国際初等カリキュラム)という、実に時代を先取りした、、、しかし、よく見ると、イエナプランのワールドオリエンテーションの理念と全く同じ考え方に基づく新しい総合的な学習のためのカリキュラムが、広く普及し始めていることです。もともと、IPCは、オランダのシェル石油会社が、海外に散らばる職員の子弟のために考案し始めたものとか。つまり、国際人として育つ子どもたちのために、国境の枠を書けない、地理・歴史、そして、理科一般などの総合的な学習のための教材を作ろうとしたことがきっかけだったようです。その後、イギリスの大学などの協力を得、中身を見てみると、イエナプランもそうですが、かなり、MITのセンゲ教授らのシステム理論の考え方、ひいては、「学習する組織(学校)」の5つの原則などもふんだん自在に取り入れられている感じがします。もともと、イエナプランのワールド織えんてしょんと、センゲらのシステム理論は、ほぼオーバーラップするくらいに相性のいいものなのですが。IPCがすごいのは、それを、年齢別、他教科との接続、なども含め、従来型の学校教育に接続させ、しかも、デジタル化を含み、次世代教育の形で、今可能なツールを最大限に利用して、未来の総合教育として教材化していることです。
 もともとインターナショナルスクールをベースに開発されてきたものなので、世界中のインターナショナルスクール500カ所以上に普及しているとのこと。HCOでは、ハーグ市にあるインターナショナルスクールでの普及もサポートしています。
 同時に、オランダ国内の小学校でも、新時代の「グローバル教育」を目指して、ワールドオリエンテーションやシチズンシップ教育の教材として普及が始まっている模様。

 もともと、オランダには「教育の自由」があるので、先駆的な教材を導入しやすいという素地があります。イエナプラン、フレネ教育などの影響のもと、サークル対話、コーナー学習、共同学習は、ほぼどの学校でもやるのが当たり前。これは、IPCのようなグローバル教育を導入するのに最適状況です。

 すでに、オランダの小学校の教室には、ほぼ完全にデジタルボードが黒板ないしはホワイトボードに入れ替わって設置されていますし、先生たちも、ウィキペディア方式で集められた、ありとあらゆるデジタル教材へのアクセスを難なくこなすようになってきています。もともと、学校を対象に作られた「教材」は、教科書ではなく、「指導の仕方」をまとめたもので、先生たちの自由裁量によって、中身を豊かに膨らませていくことを奨励したものが多い。また、HCOをはじめとするサポート季刊は、教員たちが新しい教育法に取り組む際に、1~2年の期間をかけて、ワークショップやコーチングによって後ろからしっかり支えてくれます。

 こういう指導の仕方が、そもそも、システマチックだし、教科書教育的ではない。

 産業型社会の一斉画一授業から、脱産業時代の、個別の発達保障と事件尊重の教育への移行は、「グローバル教育」の名の下で、一気に、また、急速に進んでいくことでしょう。気になるのは、こうした動きに対して、下手に、過去に産業化に成功した日本よりも、ネット文化の普及によって先進諸国の実態を手に取るようにしることができるようになったAALAの新興発展国・開発途上国の方が敏感であることです。なぜなら、こういう国には、国のリーダーたるべき人は欧米でエリート教育を受けるのが当たり前という伝統があり、国内のエリート教育でも、英語などの外国語が大変重視されてきたため、国内産のエリートたちの間の英語能力が大変高く、同時に、メンタリティでも、「批判力」(自分の頭で物事を相対的・客観的に考えることができる・それを言語化できる)を持った指導者が、絶対数として圧倒的に日本よりも多いからです。

2011年2月10日木曜日

ウィキリークスへのオランダの対応

 2010年11月末、ジュリアン・アサンジ氏が主宰するウィキリークスを通して、アメリカ合衆国の外交機密文書およそ25万点が漏洩し、アメリカ合衆国政府に大きな衝撃を与えた。
ヨーロッパでも、新聞・テレビが、かなり浮き足立ってニュースを伝えた。ジャーナリズムのあり方、第四の権力と言われるマスメディアのあり方を等、これほど格好の材料はない。
新聞などの論考では、当然賛否両論はある。ヒラリー・クリントンの狼狽ぶりにも、「安全保障のための機密はやむを得ない」という論理が成り立ちそうではある。しかし、本当にそうなのか、、、

ウィキリークス騒動から2ヶ月足らずの後、年が開け、お正月気分もそろそろ抜け始めてきた1月半ば、オランダでも、テレビ局や新聞社が、それぞれ山のような漏洩文書を手に入れ、分析を始めた。
今さら、「漏洩サイト」の賛否を論じていても仕方が無い。出てしまった文書の中に、自国に関するどんな話が、一般庶民には見えないところで行われているのか、一日も早く分析しておかなくてはならない、そう考えるのがジャーナリストたちの常識だろう。

まずはじめに出てきたスキャンダルは、昨年3月に解散した前政権の副首相ワウター・ボスをめぐる、オランダの政治家たちとアメリカ合衆国政府とのやりとりだった。

労働党の党首だったボス氏は、オランダ軍のアフガニスタン派兵延長に反対し、これが原因で、連立政権を脱退していた。解散前からすでに、連立政権の両翼だったCDA(キリスト教民主連盟)とPvdA(労働党)の間には、かなり深い亀裂があり、CDAのバルケンエンデ首相とPvdAのボス副首相との関係は犬猿の仲らしい、という噂もあった。ウィキリークスによって漏れてきた外交文書の内容は、どうやらそのことを裏付けし、具体的な内容も教えてくれるものだった。

1月20日付のNRC紙は、漏洩された文書から、CDAの政治家に近いトップ官僚らが、アメリカ合衆国経由で、ボスに圧力を掛けるよう働きかけていた、という事実が浮かび上がった、とつたえた。「ボスは、副手層を引退したあと、国際的なキャリアをつもうと野望を燃やしているから」と示唆して、NATOのオランダ対しやアメリカからの対しらを通して、アメリカ合衆国が「ボスの国際的な信用はアフガニスタンからの撤退を頑強に主張することで失われるだろう、国債キャリアへのチャンスはなくなるぞ」とか「オランダはアフガニスタン戦争に参加しているからG20にも招待されているのだ」ということを、ボスに伝えて、圧力をかけて欲しいと繰り返し頼んでいたらしいことが、明らかになった、という。これは、この後、テレビでも話題となり、新聞紙上でも議論がかわされた。

もっとも、アメリカに圧力をかけていたCDAは、すでに、解散後の選挙で議席数が半減している。もともと、CDAが、伝統的に親米的な政党であることは、だれでも知っている。だから、今回のスキャンダルは、天地をひっくり返すような大騒ぎにはならなかったし、国民は「ああ、その程度のものか」と思ったのかもしれない。

それからおよそ20日ほど経過したわけだが、今も、夕方8時のプライムタイムのニュースでは、「今日のウィキリークスの話題は、、、」という感じで、定番のスポットになってきている。たいていは、それほど大きな話題ではないが、それでも、出てきた情報を処理するのはマスメディアの仕事だ。何しろ、外交機密文書とあっては、官僚や政治家に任せられる仕事ではない。さりとて、何もしなければ、国民は自国の政治形のやりとりに無知蒙昧な状態に放置されることになる。面倒でも、今、世界中の誰にでもアクセスできる情報の中に、オランダの交換たちのどんなやりとりが漏れ伝わっているのかを把握しておくのは当然だ。

アメリカの覇権にゆらぎが見え、中国やインドなどが台頭し、北朝鮮という爆弾を抱え、ロシアの陰も見え隠れしているアジア・極東状況。そんな中で、日本の交換とアメリカ合衆国政府筋との間でどんなやりとりが交わされているかは、多分、日本に関心のある外国の交換ならすぐにでもウィキリークスに接近して情報をつかむことだろう。そうして、それをもとに、日本に働きかけてくるのではないのか?
そんな折に、日本国内の住民が、そういう情報を知らされていなければ、政治家や官僚たちは、いったい、どういう対応を取るつもりだろう?どうやってつじつまを合わせるつもりだろう?

ウィキリークスに対する、オランダのマスメディアの対応は、マスメディアの役割とは何かを鮮やかに見せてくれている。


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そんな中で、チュニジアに端を発し、アラブ世界の民主化運動が始まった。

民主運動をやる民衆らは、ネット情報でもかなり繋がっているらしい。

どうやら、世界がいよいよ民主化運動に向けて動き始めたのかな、とも思える。

政治を、独裁者や馬鹿な官僚に任せているわけにはいかない、と一般民衆が怒りの声を上げ始めている。

アメリカなど西側の報道に対抗する、アルジャジーラの活躍も目覚しい。

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そういう世界のメディア状況の中で、日本では、ウィキリークスの漏洩情報を伝える媒体が少ない。日本の主流のメディアは、まだ平和ボケから冷めずに、眠りこけているのではないのか。


そんな中で、やっと今日、こんなサイトを見つけた。

http://wikileaks-japan.blogspot.com/search/label/%E6%97%A5%E6%9C%AC





 


 
 
 

2010年11月25日木曜日

ニューワークの時代

数年前に民営化された、ある国際的にも有名な(元)国立機関の職員と話をする機会があった。
この今は「企業」となったこの機関、これまでは、何の変哲もないコンクリート造りの、長い廊下に沿って事務室が並ぶいかにも(元)公営機関らしいオフィスを使っていたが、来年新しい社屋に引っ越しだ、と喜んでいる。

今度の社屋では「ニューワークなんだよ」という。
「なにそれ?」
ときくと、嬉しそうに、楽しみな様子で説明してくれた。

今度の社屋には、共同のスペースが広くあるだけで、個別の事務室はないんだ、という。毎日、会社に言ったら、自分が好きな場所に座って仕事をするのそうだ。もちろん、ちょっとリラックスするための場所、少しひとりになって仕事をするようなニッチェ的な場所、同僚と話をするためのコーナーなどもあるのだそうだ。

「管理職はどうするの?」
といったら、
「管理職も、一部を除いてその形式だよ」
とのこと。

話を聞きながら、オランダの学校の様子を思い起こしていた。
オールタナティブ系の学校がやってきた、オープンスペース、生徒の数よりたくさんある椅子やクッションなどの座る場所、モンテッソーリが好きなニッチェ、他学年の子どもたちが交われる廊下やホールなどがすぐに目に浮かぶ。
ただ、こういう形は、小学校だけではない。中等学校(中高)でもこういう形式がかなり広がってきている。スタディハウスという、大学進学コースの子どもたちの高等学校では、決まった教室がなく、授業ごとに教室を変わるし、ましてや、スタディハウス方式で、自学自習なので、メディア室、ホール、廊下、いたるところで、自分の計画に従って勉強を進めている。
モンテッソーリやダルトンの中学などは、こういうやり方がお得意で、新校舎の学校などには、広々としたランチルームとも休憩所ともつかない場があり、そこで、共同プロジェクトの打ち合わせをしたり、ノートを広げて勉強したり、友達と雑談したりしている。

多分、ニューワークになると、一番早く適応するのは、こういう学校で育ってきた20代30代の若手たちなのだろうな、と思う。

話をしていたその職員によると、
「ニューワークはね、かなりの企業が取り入れていて、その経験からすると、最初は結構嫌がって抵抗する社員がいるらしい。でもね、いったん慣れると、たいていの人が「もう元の形式に戻るのは嫌だ」って、そういうんだそうだ」

なるほど、、そうだろうなと思う。
いつも同じ部屋で仕事をするよりも、流動的に仕事をすれば、同じ会社のいろいろな社員と自然な出会いをすることも増えるだろう。それが、良いアイデアや、生産のための連帯感にもつながろう。

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かつて、60年代のヨーロッパ映画シリーズを見たことがある。あるイタリアの映画に、狭い長方形に仕切られた仕事場で、前に座って監督している課長のもとで、一斉授業の教室のように数列に並べられた事務机で、タイプを叩きながら仕事をしている社員の様子が映された。映画監督の意図は、産業化型社会の仕事場の象徴として、すでに、この時代に、それを風刺するつもりであったようだ。

こういう仕事場は、現に、ヨーロッパ社会ではずっと少なくなってきている。70年代に広がった機会均等意識、豊かな人間らしい仕事場を求める意識が、人々の職場環境に彩りを与え、空間的な余裕を与え、灰色のスチール製の事務机からの決別を果たしてきた。

そして、それがまた一歩、ニューワークの形で、職場環境をがらりと変える変革につながってきつつある。

―――

日本では、今でも、市役所だの、一般の(有名)企業だの、みんな、事務机を背中合わせにつきあわせ、社員たちは、まるで自分の砦を守るかのように紙ばさみを積み上げて、机にに向けて顔をうずめるように仕事をしている職場がほとんどだ。
あるかなり有名な教員養成大学ですら、「オープンクラス」と称する壁のない教室でありながら、子どもたちを、黒板に向けて列に並べて授業をしているし、職員室は、相変わらず、所狭しと詰め込まれた事務机で、うっとうしくなるような静寂を強制されて先生たちが座っている。

コンピューターでどこの誰とも交信できる時代。メモリースティック一本あればどこでもたいていの仕事がこなせる時代だ。しかも、仕事は、ますます、共同性、コミュニケーションを求められる。そうでなくては、良いアイデアは生まれず、そうでなくては、良い組織は生まれない。

かつて、西洋の教育者たちが、床に釘付けにされた机を叩き壊して、子どもたちが、自由に動け、サークルになり、床に寝転がって本を読める場を作ったという時代がある。そういうパワーで、日本の学校や会社が変わる日が来るのだろうか。いや、それくらいのパワーがなくては、これからの世界で、日本人が生きていく希望はない。

2010年11月1日月曜日

あらゆる意味で史上初のルッテ政権樹立~~経済危機は乗り越えられるか~~

10月14日、6月9日の第2院選挙以来127日目にして、ようやくルッテ第1期新政権が発足した。過去の記録では、選挙から政権樹立までの連立交渉は平均82日。これに比べても分かるように相当に長く、しかも、紆余曲折の多い、困難なお産だった。もっとも史上最長記録は208日だというから、経済危機の只中で、財政緊縮と政治方針の確立が急がれる中、政治家らが、夏季休暇期間を返上して一日も早い政権樹立を目指した成果だったことも否めない。

自由民主党(VVD)の党首マルク・ルッテが率いるルッテ政権には、いろいろな意味でこれまでの政権には見られなかった特徴がある。

まず、自由民主党(VVD)という非宗教的な自由主義者の政党が第1党となって政権をとったことだ。オランダの政党政治はこれまでキリスト教保守主義と労働党の社会主義が政治の両翼を成してきた。宗教的保守主義を否定して生まれた自由主義者たちの政党は、そういう文脈の中では、第3の政党にとどまり、連立政権で他党に協力して与党になることはあっても自ら第1党に躍り出ることはこれまでなかった。(1913-1918年に自由主義者が首相になったことはあるが、この首相は政党的な背景を持っておらず、以来一度も自由主義者が首相になったことはない。)

第2に、この政権は、選挙で最大議席(150議席中31議席)をとった自由民主党(VVD)が主導しているものの、今回の選挙で大幅に敗退したキリスト教民主連盟CDA(41議席から21議席へ)と連立している。言うまでもなく政治姿勢において、かなり右寄りであるVVDにとって連立政権を打ち立てるためのパートナーの選択肢が限られていたことが理由だ。しかし、その結果、与党は2政党の議席を合わせてもわずか52議席しかなく、第2院の150議席の過半数にあたる76議席を大幅に下回る。こういう、少数派政権という状況はオランダの政党政治史上初めてのことだ。

そのため、今政権樹立のためには、オランダでも前例のない新しい方策がとられた。それは、前回の9議席から24議席まで躍進して第2党に躍り出ていたヘールト・ウィルダーズ率いるPVV(自由党)との間で「許容合意」というものが結ばれていることだ。この「許容合意」とは、PVVは、政権には入らず野党として残るが、一定の政治政策項目に関しては、政権与党に協力するというものだ。つまり、VVDとCDAの政権与党は、PVVとの「許容合意」を用いることによって、76議席つまり、150議席中のぎりぎり過半数を確保できることになる。ウィルダーズのPVVは、これまで「宗教の自由」を国家存立の基盤に据えてきたオランダにとっても、また、その主張が持つ民族排他性のにおいに関してもた政党が一線を画してきた政党だ。しかし、PVVが選挙で大躍進をしたことは、有権者の中に支持が増えていることにほかならず、伝統的な政党も、PVVの存在を真摯に認めざるを得ない、という事態となった。

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前例のない少数政権、また、野党の1党との「許容合意」なるものの付随された政権樹立という結果に至った事情を、時間的な経過を追いつつ、少し詳しく見てみよう。

まず、すでに過去の記事でも報告した通り、6月9日の選挙で、オランダの政党支持の構図がこれまでと大幅に変更し、各党の政治姿勢から言って、連立によって安定政権を築くための条件が極めて難しい状況が作られていた、という前提がある。

一つは、文頭にも述べたように、自由民主党(VVD)という、これまで第1党に躍り出たことのない政党が最大議席を獲得し、PvdA(労働党)と並んだことだ。また第二は、イスラム教を単に宗教とみなすのではなく、政治的イデオロギー集団とみなして、イスラム教徒排斥を政治綱領の中心に据えた新勢力自由党(PVV)が、9議席から24議席に躍進して、なんと、キリスト教国オランダの伝統政党であるキリスト教民主連盟(CDA) を抑えて第3政党になったことである。

もともとプロテスタントやカトリックのキリスト教民主主義の伝統があるオランダでは、1990年代半ば以降の一時期、労働党がCDAを退け、自由党(VVD)と民主66党(D66)と連立して、社会主義(赤)と自由主義(青)の連合「紫政権」を作った時期を除いては、常に、CDAが政権与党の一翼を担いながら、自由党または労働党と組んで政権を樹立させるという形式が主流であった。元来、キリスト教主義は、一方で、宗教的倫理の尊重や中央集権的な教会制度などに象徴される保守的な面を強く持ちつつ、他方では救貧院の伝統に象徴されるようなキリスト教社会主義的な側面を持っている。それが、左右両翼との連合を可能にしてきたものであると思われる。CDAはある意味で、左右両翼の調性的立場に立つ政党であると同時に、CDAが中心にいることで、オランダの政治は、右にも左にも極端に揺れることなく、中道を保ちつつ、右と左へのアクセントを交互に強調してきたとも言える。しかし、それは同時に、CDA自身のイデオロギーの揺らぎを前提としており、同時に、CDAの支持基盤であるキリスト教者が教会離れをしていった70年代以降のオランダでは、確実な支持層が必ずしも得られない要因であったともいえる。

そのCDAが21議席にまで敗退した今回の選挙結果。政治姿勢が明確に対立する政党が林立する、政権交渉の見通しがすぐにも困難となると見通せる結果だったわけだ。

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総選挙後さっそく、第1党となった自由民主党(VVD)と、今回の選挙で躍進したイスラム教排斥の自由党(PVV)とが連立の可能性を主導すべき、との見方がどの政党からも認められ、この2党にCDAを加えた三党連立の可能性が議論された。しかし、CDAは、イスラム教排斥のPVVと共に政権を作ることには乗り気ではなかった。

短時日のうちにこの第1の可能性は薄いとの結論となり、連立交渉は、自由民主党(VVD)が労働党(PvdA)と協力して、これに、中道の民主66党(D66)と環境擁護派の「緑の左派党」(GL)を加えた「紫大連合」の可能性を探る方向で進められた。労働党は前回に比べるとやや後退したもののVVDに迫る第2の政党である。しかも、民主66党も緑の左派党も、今回の選挙では前回よりも躍進し、支持者層を広げた政党だ。
しかし、この連合交渉も2週間後には座礁に乗り上げた。基本的に、自由主義で企業や高所得者層の支持を持つVVDの財政緊縮政策と、労働者の利益を代表する労働党の財政緊縮政策は真っ向から対立する。妥協の余地はなかった。また、もしもこの「紫大連合」を成立させれば、野党勢力の中に、連合内でVVDのパートナーになっている政党よりもイデオロギー的にVVDに近いPVVやCDAが残り、これらの政党からVVDの政治方針と政権での姿勢の矛盾が起こることに対して、批判の矢は避けられない。次回の選挙までにVVDが支持を落とすかもしれない、というリスクは非常に大きい。せっかく第1党に立ったVVDとしては、左派勢力と連合することに乗り気にはなれなかった。

連合交渉は、次に、自由民主党(VVD)と労働党(PvdA)に加えてキリスト教民主連盟(CDA)を含め、伝統的な政党による中道政権樹立の可能性を話し合った。経済不況を乗り越えるためには、イデオロギーの違いを乗り越え、連帯してかかわるべき、という意見も散見された。しかし、前政権解散の理由は労働党とCDAの対立が原因だ。両政党の間には深い亀裂が入っている。労働党(PvdA)の党首ヨブ・コーヘンは、民主66党や緑の左派政党などの左翼小政党が参加しない中で、VVDやCDAとの連立には関心がない、と突っぱねた。

労働党を含む政権樹立の可能性がなくなった今、連合交渉は振り出しに戻る。結局、7月23日、総選挙から2カ月足らずの後、再度、VVDがCDAやPVVとの連合可能性を検討するという、総選挙直後の状態に戻った。むろん、すでに、さまざまの連立可能性を議論したのちのことだし、世論は、経済危機の中で、早く政権を樹立して安定政治を始めるべきであると、早い決着を待っている。そこで、連立交渉調停人の立場に立ったCDAのベテラン政治家、元首相ルベルスの提案で、VVDとCDAの連立に野党PVVとの「許容合意」を組み合わせて政権を発足させるという枠組みが始めて提示された。

3政党はこの案に積極的で、これまで、連立交渉にかかわった他の勢力にも言い分はなかった。

この時点で、VVDとCDAは、以下のように共同声明を発表している。

「VVD,PVV,CDAの3政党はイスラム教の性質や性格について互いに意見に相違を持っている。この相違はイスラム教の性質が、宗教的なものであるとするのか、あるいは(政治上の)イデオロギーによるものであるとするのかという点にある。各政党は、この点についての理解の相違をお互いに受容するものであり、各政党のそれぞれの立場を基本に据えて交渉に入る。にもかかわらず、この3政党を結び付けているものは多い。3政党が共通の目標にし出発点としているのは、オランダをより強力で安全かつ繁栄した国にすることだ。だからこそ、意見の相違を互いに受け入れ、それぞれの立場の間に存在する相違について、意見表明の自由を全く尊重したうえで、PVVは政権連立合意の一部を、許容的に合意する立場という観点から支持するという合意に達した。また、VVDとCDAとはPVVが許容合意を認めるという姿勢を尊重し、それに応えられるように望んでいる。この許容合意においては、いずれにしても、財政削減の施策を進めると共に、移民、同化と難民、治安、高齢者の社会保障向上の点について、PVVが財政削減策を支持することに対して、譲歩する方針である」

つまり、簡潔に言うなら、財政削減策として、VVDとCDAの合意に基づく、2015年までに180億ユーロを削減するという目標をPVVは受け入れ合意するが、それと引き換えに、移民、同化、難民、治安政策などで、これまでよりも対イスラムの態度を強化すると共に、高齢者に対する社会保障を向上させる、というPVVの意向を、VVDとCDAとは尊重する、という関係構図だ。


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一旦は、この枠組みで連立樹立は間近か、とも思われた。しかし、ここで、また新たな問題が浮上した。

VVDやCDAに協力を約束したPVVの党首、イスラム教排斥主義の旗手であるヘールト・ウィルダースが、こともあろうに、9月11日に、ニューヨークでかつてイスラム教テロリストの手で爆破されたと言われる世界貿易センターの跡地付近に作られるモスク建設反対集会に参加し、そこでスピーチを行うことにした、と発表したのだ。

連立交渉が始まったばかりのVVDやCDAにとっては当然嬉しくないニュースだ。特にあわてたのは、前政権から引き続き外務大臣を続けているCDA党首のフェルハーヘンだ。政権交渉に参加している政党の党首が、国際的な場で、「イスラム教排斥」を明言すればオランダという国の国際的な名声を傷つけるリスクは大きい、と忠言した。

ニューヨークでのモスク設置反対運動出ウィルダーズがスピーチをするということが、PVVと政権交渉を続けるCDAの内部でもよほど緊張感を高めたのか、この頃から、CDA内では、かつて閣僚や党内の重職についていたようなベテラン政治家らが、PVVとの交渉を取りやめるように、との発言を公表するようになった。60人にも及ぶ政治家らが名前を連ねて、公開の書状を全国紙に掲載したりした。
そのうち、連合交渉にあたっていたCDAの重要な政治家、かつて党の科学研究所所長や大臣を歴任し、CDAのイデオローグであり次期党首候補とまで言われていたアブ・クリンクが、「連立交渉人」辞任を発表するという事態にまでエスカレートした。

こういうCDA内部の対立に対して、PVVのウィルダースは「CDAの内部対立は、連立政権に許容合意の形で協力するという姿勢を揺るがすものである。交渉相手としてCDAに対する信頼は地に落ちた」として、交渉から撤退を表明。結局、アブ・クリンクがCDAを脱党することとなり、それによって、PVVはかろうじて、VVD-CDAの連立交渉に参加して、「許容合意」交渉を続けることに同意した。明らかに、政権交渉の行方に対してカギを握っているのは、連立交渉をしている自由民主党(VVD)やキリスト教民主連盟(CDA)ではなく、PVVの方だ、という様相が強まってきた。

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オランダがどうなることかと心配して見守っていたニューヨークでのウィルダースのスピーチは、意外にも、(あるいは国内議論を受けてウィルダーズ自身が自生したものか、真意は分からないが)多くの人の予想に反して、極めてマイルドなものに終わり、民主主義国家オランダの名声が世界の舞台で傷つけられる、という事態は何とか避けられたようだった。

そして、9月に入り、自由民主党とキリスト教民主連盟との2党による少数政権樹立のための連立交渉と、政権の政策に対して許容合意を取り付け、議会多数派を確保するというPVV との話し合いは、その後比較的順調に進み、月末には、政権樹立がほぼ現実的なものとなった。

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以上のようないきさつを経ているだけに、今政権の基盤がかなり不安定なものであることは否めない。また、大政党労働党、さらに、社会党、緑の左派党、中道知識人政党の民主66党までを含めると、多数の左派勢力が野党に残り、『自由民主党党首のルッテは、選挙結果に見られる民意を反映する努力をしたのか』という批判も残る。

VVD-CDAの連立だけでは政治的安定は見込めず、そのために「許容合意」を結んでいるPVVには、すでに、政権樹立過程に見られたように、大きな政治影響力が残されている。
連立樹立の前には、どの政党も、連立合意に同意するかどうか、党内の協議にかけられ、投票が行われる。VVDとPVVは連立合意(と許容合意)に絶対多数で賛意を示した。しかし、CDAは4000人余りの党員の投票結果、3分の1が反対していることが明らかになった。この潜在的な不安定要因が、今後のルッテ政権の安定にどんな障害をもたらすかが気になるところでもある。

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先週、いよいよルッテ政権発足ごはじめての国会討議が始まった。予想通り、早速、野党左派勢力がこぞってルッテ政権の政治方針に対して大きな批判の矢を投げ始めた。他方、これまで、「イスラム排斥党」として、右派勢力からも左派勢力からも忌避されてきたPVVが、以前に比べてずっとマイルドな姿勢で、政権に協力の態度を見せている。「許容合意」に基づく約束通りの姿勢であるとはいえ、イスラム教排斥問題が、単なる宗教(集団)に対する批判から、「オランダへの同化を拒否する人々」への批判という形で、問題の所在を正確に指摘する努力が始まっていることは、また一歩、この国の政治過程の進歩でもあるのだろう。

これらのオランダの政治過程の背景には、経済不況、特に福祉国家がどこも直面している高齢化社会の問題が厳然と存在していることは言うまでもない。移民労働者の流入は、ある時期には高齢化社会の国庫を支える若手労働者の基盤として奨励される意見もあった。しかし、1929年の世界大恐慌以来の大恐慌といわれる2008年のリーマンショック以後、先進各国で問題化しているのは、若年労働者の失業問題だ。

政治的独善に陥りやすい宗教上の原理主義は、イスラム教の場合も例外ではない。16世紀の、スペインからの独立戦争以来、オランダ建国の歴史を貫いてきたのは「宗教の自由」であり「寛容」の国民性だった。「宗教の自由」と「原理主義的独善」との間の栓をどこに引くのか、、、それは、対イスラム問題であると同時に、イスラムを排斥する側の、たとえて言うならキリスト教原理主義の持つ問題でもあるかもしれないし、西洋の民主主義に対するアイデンティティについての言えることであるのかもしれない。オランダ人らがアイデンティティの支柱にしてきた「宗教の自由」には、そういうパラドックスも潜んでいる。今後オランダの政治がどういうプロセスをたどっていくのか、、、、実は、最も大きな試練を受けているのは、オランダ政治の中心を担ってきたキリスト教民主連盟(CDA)なのではないか。

そして、オランダがこの問題をどう政治的に議論し解決していくのかを見極めることは、キリスト教を基盤として生まれた「民主主義」を、世界がどう共有できるか、「自由」や「人権意識」を、非西洋の文化的な背景を持つ私たちは、どう、自身ものとして「普遍的価値」に結び付け、世界を舞台にした市民意識として内面化させていくことができるのか、という問いに示唆を得ることでもあると思う。

2010年8月29日日曜日

お知らせ:政権樹立ウォッチング中

 去る6月9日に行われた第2院選挙の結果は、即日開票の段階で、政治家、メディア関係者にため息をつかせる結果だった。どこをどう見ても、安定した連立政権を樹立させる可能性が見つからない結果だったからだ。
実に、以来、何度も組み合わせを変え連立交渉が繰り返されてきたが、いまだに、見通しが決まらない。9月第3火曜日の予算発表と国会開幕の日が目前に迫っているのに、それまでに政権が樹立される見通しもない。
毎日毎日、樹立をめぐる状況は揺れ続けている。

果たして、金融危機と、予想される来る年間の厳しい経済情勢に挑んでいくのはどの政党なのか、、、方針が決まらなければ、経済政策も危うい。(もっとも、新政権の体制が決まるまでは、従来の政権が政治責任を維持するので、無政府状態になることはないが、、、)

というようなわけで、筆者も、政権樹立ドラマをウォッチング中。
いずれ、少し安定した見通しがついたら、報告を、と思いつつ、、、

2010年8月16日月曜日

一年中で最も心が塞ぐ日

今年も八月一五日がやってきた。
私が住むハーグ市にある、蘭印日本軍捕虜収容所犠牲者追悼碑(Indische monument)で、追悼式が行われる日だからだ。

終戦から六五年目を迎える今年、追悼式にはベアトリクス女王も出席し、追悼碑に花輪を捧げられた。

戦時中、蘭印(現在のインドネシア)で日本軍の捕虜になって四年近くもの捕虜生活を余儀なくされた、一般市民だった(軍人ではなかった)オランダ人たちが、この日全国から集まってくる。夫や妻や親や兄弟・姉妹を、日本人の手によって奪い取られた人たちだ。当時乳飲み子、幼児で、捕虜生活の中で親兄弟を失った人も少なくない。 

追悼式の前に、付近の国際会議場に集まってくる人たちに、テレビのジャーナリストがインタビューをする。一人ひとりに苦い、辛い、生きている間、決して消えない思い出がある。毎年出席し、毎年花を添えていく人たちの心は、その日、何がしか癒されるのかもしれない。しかし、消えない過去の思い出と、それを抱えて生きなければならなかった人生のつらさはなくならない。
なぜ、自分と同じ人間が、ここまで、人の「尊厳」を無視した行為ができるのだろうか、というのが、当時被害者だったオランダ人たちの、日本人の行為についての反応の一つだ。

「戦争だったから」と片付けられるものなのかどうか、、、
「戦争をしていない」今も、日本人は、みずからの「尊厳」を守れない生き方を余儀なくされているのではないのか、戦前と同じように。そういう、上から、外からの強制をはねのけられない日本人とは一体何なのだろう。民主主義の時代に、跳ねのけることを遮っている力は、いったい何なのだろう、、、、日本人が「ものいえば、唇寒し」と感じさせられてしまう、その背後にある力は何なのか、こういう式典の度にそれを思う。

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「なぜきょうここに?」
というインタビューワーの質問に、
「ビルマ鉄道敷設の強制労働に駆り出されて死んだ父親の追悼のため」
「捕虜収容所で亡くなった母の追悼のため」
「失った兄弟のため」
と次々に応える参会者たちは、答えながら、顔が急に曇り、思い余って涙を流す人たちが後を絶たない。あの日、あの時からの人生の苦しさが一気に溢れてくるのだろう。

式には、首相、国会両院の議長、厚生大臣も参加する。国家行事だ。国営放送がその様子をつぶさに伝える。
ヨーロッパのある国で、国家行事として戦時中の日本軍がテーマになった追悼式が行われているという事実を、日本人のほとんどは知らない。それを誰も報道しない。右翼も左翼もなく、この式典の事実は伝えられ、知られるべきではないのか。

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かつて外務大臣だったハーグ市の現市長ファン・アルツェン氏は、自身も二人の叔母を日本占領期に亡くした、という。そして、
「オランダ人ならほとんどの人が、親せきに、日本軍の犠牲者がいるはずだ」と彼はいう。

今年の式典では、六〇年代の人気シンガーが、生まれて間もなく、日本占領軍によって母親を失ったこと、その後の人生を、多くの人々が、沈黙の中に押し込めて生きなければならなかったことを伝えるスピーチを行った。

牙を向け続けても、日本から得られるものは何もない。日本の公的な賠償は確かに終わり、期限も切れている。日本人は、「謝った」ところで、またぞろ、国内で政治議論が起こるだけ、靖国参拝は続くだけ、もう仕方がない、と諦められているのか、日本政府への怒りの言葉は、今、もう誰からも聞かれない。

日本人の引揚者の中にも、戦時中、そして、戦後に、捕虜として辛酸をなめた人は多いはずだ。その人たちと、このオランダ人犠牲者との間には、共有できる心境があるのではないか、と思う。
また、こういう戦時中の日本軍の悪口にまつわるテーマが出てくるたびに、日本の保守的な人々からは、「戦争がいけないのだから」「オランダだって帝国支配によって現地人を強制労働に駆り立て、差別していたではないか」という議論が起こってくる。

だが、それは水かけ論というものだ。

人間は、追い詰められ、武器を持たされたら、自分の生存のために何をやらかすかわからない。
その一点で、私たちは、オランダ人の犠牲者たちと、対話の道を開くべきなのだ。しかし、それを遮る力が、対話をさせない嫌な力が、日本社会にはある。

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式典の後には、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの大使らも花輪を添えた。しかし、日本から公式な参会者はいない。

人知れず、8月15日の午後は、オランダの通りを歩くことすら気が引ける。誰も何とも思っていないのかもしれないが、せめて、日本が、オランダとの不幸な過去について、オープンにかかわる態度、日本人の誰もが忌憚なく意見を言える環境を作ってくれていさえしたら、と思う。

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オランダでの追悼式典には、高齢者ばかりでなく、子どもの世代、孫の世代のオランダ人がたくさん参加している。スピーチには、毎年、高校生が一人選ばれる。小学生くらいの子どもたちも、おじいちゃんやおばあちゃんに手をひかれて、式に参加し、記念碑に花をささげて帰っている。

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追悼式典の後、一時間にわたって、インドネシアで日本軍兵士らの「慰安婦」として、若い身体をもぎ取られた女性たちを、オランダ人の人類学者とカメラマンとがインタビューしたドキュメンタリー映画が放映された。

「どうせ私たちのような子供を相手にやってみたかったんでしょう」とけらけら笑う老婆。恥ずかしさに、どんな顔をすればいいのかわからなかったのだろう。笑っている顔が、その日の情景を思い出してか俄かに曇り、いいようのないほどの悔しさと苦々しさを顔面に表わして、涙を流した。
「尊厳」を無視され、身体を侮辱された彼女たちの心が、どんなに、ズタズタに切り裂かれていたことか。

女ならば、「身体」だけを求めて、性欲の吐き捨て場として体を使われることが、人間としてどんなに辛い侮辱であるか、誰でもわかるはずだ。

「いったいいつまでこんなところに閉じ込められ、こんなことをさせられ続けるのだろう、とひとりで考えたわ。何か罪深いことをしているから、神様が罰を与えているのかしら、ひとりっきりでそんなことを考えていた」と、ほかの女性はつぶやいた。

一〇歳、一二歳で、兵士らの性行為の相手をさせられた女性たち。彼女らは、いったい、その後、どんなふうにして、「人を信じられるように」なったのだろう。

「あんなことをしたことは誰にも言えない。神様が許して下さるのかどうかわからない」
と彼女らはいう。

インタビューワーのオランダ人人類学者の女性が
「あなたはほかにどこにも行けない状態で、強制的にそういう行為をさせられたのでしょう。それは罪ではないでしょう」
といわれ、
「はずかしいのよ、罪なのよ」
と答える彼女たち。

「罪なんかではないわ、あなたのせいではないのだから」
と静かな口調で穏やかに諭すオランダ人に、その女性は、やっと理解者を得たかのように、流れてくる涙を静かに拭いた。

終戦直後、日本人兵士が去って行ったあとに、彼女たちは、何日間もの道のりを歩いて自分の村に帰ったという。そして、その語の人生を、「過去を隠して」か、村人からの「罵倒」を浴びながら暮らしたという。

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自分が生まれたその土地に、ある日、外国から兵士がやってきて、銃剣を突き付け、セックスを強制される。なんという哀しみであろう。

でも、彼女たちは、この深い深い哀しみを心の奥深く抱えて生き延びてきた。

愛のない、肉欲だけの男たちからからだを汚されたこの女性たちよりも、多分、そういう行為をした兵士たちの方が、みすぼらしい心を引きずった人生を余儀なくされたのではないのか。その兵士たちに本当に「選択の余地」はなかったのか。たった一度きりの人生で。
そういう環境の中で、自分らしい「選択」をすることなど、容易なことではなかったのだろう。
しかし、ではなぜ、戦後、そのことを日本人として語る場が得られなかったのだろう。語りたい人、自分の犯した行為に苦しんだ人は多かったはずだ。

そうした、良心の呵責を、皆で語る場がなかったこと、公に話をする場を奪われてしまったこと、それについて、日本人はもっと考えてみなくても良いのだろうか。なぜ、歴史は、そういう経過をたどったのか、と。

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イエ社会・タテ社会の日本。
多くの人々が誇る日本の「家系」に、女たちの名前はほとんど残されていない。みな「女」と記される存在でしかなかった。

性を売り、性を買う日本人が、知っておくべき歴史だ。