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2009年10月5日月曜日

ポルダーモデルの危機? ポストグロバリゼーションの時代

 「どうやら、『ポルダーの嵐』が吹き荒れることになりそうだ」
 先月末、オランダのバルケンエンデ首相はこう述べた。

 これは、オランダの社会経済政策策定プロセスとしてよく知られた『ポルダー・モデル』が機能せず、交渉が暗礁に乗り上げた、ということを意味している。
 『ポルダー・モデル』とは、政府・労働者・企業家(政労使)の三者が、お互いの利害を出し合って話し合い、それによって、立場の違うものが、問題状況を広く受け入れ、それぞれが歩み寄って納得できる形で対策を生み出すという独特の仕組みのことを言っている。そのため、オランダの「ポルダー・モデル」は「協議(overleg)経済」とも呼ばれる。
 
 『ポルダーモデル』は、戦災からの早い復帰を目指して、労使が歩み寄り、ともに解決策に乗り出そうとした、第2次世界大戦後まもなく生まれたものである。はじめに、労働者組合の代表と企業代表から成る民間の組織STARができ、それから、これに、政府が第3者として加わって話し合いを進める公的機関SERができて、制度的な形を整えた。

 『ポルダーモデル』の成功例として有名なのが、1982年の「ワッセナーの合意」であり、それは、このオランダ通信でも何回も触れてきた、パートタイム就業の正規化、すなわち、ワークシェアリングを実現させた施策だった。また、その後に再び起きた経済危機に対抗して、90年代の政策返還を生んだのも、この『ポルダーモデル』の仕組みがあったからといわれる。

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 さて、今回『ポルダーの嵐』といわれている事態とは、具体的に何のことか?

 それは、AOW(国民年金受給年齢)の引き上げ、に関するものだ。

 昨年秋の金融危機を受けて、今年の3月、オランダ政府は、金融危機緊急経済回復プランを話し合った。(本ブログで報告:http://hollandvannaoko.blogspot.com/2009/03/blog-post.html
 政府のプランは具体性や効果の見通しを欠くとして、野党からは強い批判を受けたが、その際に、現政府は、AOWの受給年齢を、現行の65歳から67歳に引き上げることによって、40億ユーロ(日本円にしておよそ5200億円)の国庫削減を生み出すとの案を提示した。
 これに対して、労働組合側は強い反対を示し、その結果、今月1日を最終締め切り日として、労使間の話し合いによって、対案を出すということで決着していた。

 このように、オランダでは、政府の案に対して、企業や労働者からの反対がある場合、国会の議員たちが、その意向を代表して協議するのではなく、その前に、企業家代表と労働者の代表とが、国が指定した独立の立場の参加者とともに直接に協議し、3者の相互理解を深め(「浮揚面」を生み出す、という表現が使われる)、その上で、対案を出す機会が設けられる。これが、『ポルダーモデル』なのだ。
 そうすることによって、社会内で広く問題を共有することができ、政府がその話し合いの結果をうけて、無理のない政策を実行できるので、政策に対する有権者の関与、特に、立場や利害の異なる、労使相互が責任と自覚をもって政策に関与できるという仕組みになっている。

 労働者代表と企業代表とは「社会パートナー」という言葉で呼ばれることもある。
 『ポルダーモデル』=「協議経済」は、政労使の協議による社会経済政策策定プロセスであると言われる所以だ。一方では、経済発展・維持モデルであるとともに、そのために、労働者が満足のできる形を求めるという点では、社会(福祉)政策モデルでもある。

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 AOWについてのポルダーモデルによる協議はなぜ決裂したのか?

 労働組合代表は、企業家代表との話し合いにおいて、「フレキシブルAOW制度」の導入という対案を提案した。
 これは、現行の65歳からのAOW受給に対して、労働者一人一人が、退職年齢を65歳から70歳までの間、自分で選択でき、長く勤務して退職するほど、AOWの額も増える、という制度である。この制度を導入することで、労働者は、退職年齢を自分で決められ、また、それによって、政府案と同じおよそ40億ユーロの節減が可能になる、との案だった。

 この案に対して、実を言うと、労働組合代表は、与野党のいずれからもあまり大きな支持を得ることができなかった。
 まず、野党のうち、組合運動とは対極にある極右政党PVVは、移民労働者の福祉資金への国庫支出が莫大であることを理由に、移民排斥を唱えている立場なので、本来オランダ人労働者が受けるべき福祉として、65歳というラインを維持したいという立場である。また、左派の社会党(SP)は、労働組合の、政府案への歩み寄りを批判して、65歳ラインの維持を訴えている。
 また、社民派リベラル政党である「民主66党」は、フレキシブルAOW制度は、あいまいで煩雑な制度だとして、対案として有効ではない、政府案の実施を好まないのであれば、両者が歩み寄れる妥当なあんを出すべきだ、という立場をとっている。

 このような野党のコメントに見られるように、労働組合が提出した対案には支持が少ない。しかも、この労働組合代表による対案は、企業家からは全く相手にされず、結局、企業家代表側は、「2025年からのAOW受給年齢67歳までの一斉引上げ」案で応じた。この案であれば、現在50歳以上の労働者に、67歳引き上げは適用されないことになる。
 だが、労働組合側は、重労働就職者の早期退職の可能性を残すべきであるとして応じなかった。

 結局、政労使が『ポルダーモデル』によって対案を生み出すはずのSERでの話し合いは物別れに終わり、約束の10月1日までの対案提出は実現しなかった。

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 物別れに終わった協議を受けて、バルケンエンデ首相、ボス副首相・財務相、ドナー社会事象・労働機会相らは、次々に、「遺憾」を表明。代案提出のチャンスが生かされなかったのなら、当初の約束通りに、政府案の法制化と実施に取り組む以外にはない、という結論となった。
 労使交渉に対する時間的猶予の提供、不成功への遺憾表明、などは、強行議決を避けるためにとるプロセスであると言っても過言ではない。

 政府案によれば、向こう24か月の間、毎月、AOW受給年齢を1カ月ずつ引き上げて、最終的に、2年後には、年金受給年齢が、全体として67歳にまで引き上げられる、というものだ。

 労働組合側が出した「フレキシブルAOW制度」に比べても、企業者側が出した「2025年67歳一斉引上げ」に比べても、もっとも早急で厳しい対策だ。
 

 バルケンエンデ首相が、『ポルダーの嵐』を予想したのは、いずれにしても、政府案の実施に対しては、前述の野党らが、反対議論をしようと手ぐすね引いて待っている、というものだ。

 労使交渉も決裂、議会でも与野党が対立すれば、この国は、ポルダーの連帯どころか、国内の分極の相を増していく。それを「嵐」と呼んだのであり、どの首相も、声をそろえて、「遺憾だ」と顔をしかめて見せたというわけだ。

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 物別れとなった労使交渉で不快な屈辱感を味わった組合側は、さっそく、今週水曜日のストライキの実施を決めた。7日水曜日の午前中のラッシュアワー時に、公共交通機関が運行を停止する予定だ。

 オランダは、『ポルダーモデル』があるおかげで、ストライキが比較的少ない国だ、といわれてきた。それだけに、「ストの実施」は、ポルダーの危機そのものを象徴している。

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 ところで、このAOW(一般老齢年金)だが、これは、日本の国民年金に相当するもので、満65歳になるすべての人が、同額の年金を支給されるものだ。その意味で、現在日本でもよく議論されているベーシック・インカムの一つの型であるといわれている。

 だが普通、多くの労働者は、雇用者との契約によって、企業ごと、あるいは、業種別に、年金基金に積み立てていく方式で、独自に年金受給を準備している。したがって、こうして積み立てた年金を利用したり、貯金や投資収益を利用すれば、国民年金の受給年齢まで待っていなくても退職して暮らしていける、というケースがかなりある。
 ましてや、ワークシェアリングの導入で、「会社で働くことだけが人生じゃあない」と堂々と言ってのけることのできるオランダだ。実際、55-65歳の就業率は半数ほどにしか満たない、という。」
 今回のAOW67歳引き上げ議論とともに問題になっていたのは、高齢化社会の中で、どうしたら労働者の退職年齢を長く引き延ばせるか、つまり、どれだけ多くの労働者をAOW受給年齢まで職場に引きとめるか、ということでもあった。

 日本の企業のように年功序列や終身雇用という慣行がなく、しかも、「差別廃止」原則によって、男女、性指向性(同性愛者など)、人種などによる差別とともに、年齢による差別をも禁じているオランダだ。年功が長いとか、経験年数が長いというようなことは、職務について、ほとんど積極的評価として受け止められることはない。むしろ、高年齢の労働者は、さまざまの面で、職務効率が劣るという評価もあり、企業や組織でも高年齢者の勤続にはあまり積極的ではない、というのが実態だ。早期退職者が多いのには、そういう背景もある。

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 現代の多くの先進諸国では、高齢化のために、人々の勤続年数を引き上げて、退職者を減らすべきだという議論がある一方、金融危機で効率化を図らざるを得ず、生産効率の悪い高齢労働者をあまり歓迎しない、という相反する状況もある。

 企業グロバリゼーションの時代は、高齢化社会と高度福祉制度の両立をどう図るか、という各国内の社会政策上の問題を越えて、大企業の多国籍化とそれによる貧富の差の拡大を生んだ。程度の差こそあれ、それは、多くの先進諸国で共通の問題だった。
 しかし、金融危機によって、市場原理一辺倒の制度が持つ大きな限界がだれの目にも明らかとなり、一方では、金融機関をはじめとする企業の無制限の暴走を監督する必要性に迫られ、他方では、生み出された貧富の格差を、福祉によって是正しなくてはならない、という課題が新たに生まれている。

 高齢化社会における就業の形、年金などの福祉制度をめぐっては、もっと広い視野で、市民のライフスタイル、育児やNPO活動など<金銭的な支払い>がなくても、安定した社会の維持のために必要な人々の活動を、どう社会全体の仕組みとして組み込んでいくか、ということまでを含む議論が必要になっているのではないのか?

 これまで、高度福祉社会と自由市場原理経済の二つを両立させながら、さまざまの斬新な施策を生んで、なんとか幸福度の高い社会を築いてきたのがオランダの『ポルダーモデル』だった。

 今回の労使間の物別れに象徴される『ポルダーモデル』の行き詰まりは、なにか、福祉国家と市場経済に、大きな転換を迫るものとなるような気がする。