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2009年3月30日月曜日

連帯と業種別組合:ワークシェアリング(ポルダーモデル)を可能にしたもの

 日本でも7年ぶりに再びワークシェアリングに取り組むことが政労使の合意で決まったという。(関連記事:http://naokonet.blogspot.com/)世界規模の金融危機、人件費の高騰、基幹製造業の生産低下と円高の煽りも受けた輸出額の急激な減少などで、日本経済の先行き不安要因は一気に高まり、失業率も今後ますます増えることが予想される。特に、すでに社会問題になって久しいフリーター、ニート、ワーキングプアなど、将来に展望を描けない若者の人口が急増している。一方で、高齢化社会を支える若年就労人口の減少を予測させる少子化問題が取りざたされているというのに、若者の働く権利・生きる権利を尊重する活力のある動きは見られず、巷では、いよいよワークシェアリングを実現する以外に解決策は見当たらないのでは、という声が増えてきている。そんな中での、7年ぶりの政労使の合意というが、果たして、それは、本当に効力のあるものになるのだろうか。

 ワークシェアリングの考え方は、オランダのポルダーモデルに起因するところが大きい。実際、オランダは、1982年、ワークシェアリングを実現することになった「ワッセナーの合意」(政労使合意)によって、低迷していた経済を目覚ましく好転させ、90年代の経済好調期を迎えることになった。このオランダの例は、当時のオランダに、ある意味で状況が似ていなくもない今の日本に一つの切り札を提供しているように見える。だが、今回の7年ぶりの「政労使」合意によるワークシェアリングへの再度の踏み出しは、本当に、切り札として有効なのだろうか。

 そういう観点から、オランダのワークシェアリングの状況を少し詳細にみてみたい。

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 実をいうと、オランダでは、「ワークシェアリング」と言ってもだれも何のことかわからない、というのが多分現実であろう。この言葉は、オランダではほとんど聞かれることがないからだ。
 日本でワークシェアリングが議論されるとき、その典型例としてオランダの経験がよく引き合いに出される。しかし、日本では、残念なことに、これを「オランダ・モデル」という言葉で表現している。おそらく、英語のわかる人が、この言葉を直訳してHolland ModelとかDutch Modelなどという語にして検索してみても、目的のワークシェアリングについてのオランダの背景情報には、おそらくなかなか行きつかないのではないかと思う。

 オランダでは、ワークシェアリングは「ポルダー・モデル」として知られている。名付け親はイギリス人の経済学者らしい。そして、この語は、オランダのワークシェアリングの本質を実に的確に示した言葉であるといえる。それは、単に、「仕事分け合う」というだけのものではなく、国内における失業率の低下と対外的な経済競争力の維持を目的として、雇用機会の創出と、それに伴う既存の雇用機会における労働時間の削減、また、賃上げ要求の抑制に基づく企業の競争力の維持、そして、これらの施策を促進するための法規的な制度の整備を内容とする、総合的な経済回復プランだった。

 <ポルダー>とは、人工の干拓地のことだ。河口のぬかるみの土地の周りをダイク(堤防)で囲み、風車などを使ってポンプで堤防内の水をくみ出して(干拓して)作った土地だ。オランダの全人口の約6割が、このポルダーといわれる海抜0メートル以下の土地に暮らしている。
 このような海抜下の土地ポルダーでは、住居や作物・家畜そして人命を押し流す洪水が最も怖い。そのため、オランダには、地方に分権された一般行政組織とは独立に、全国規模の水管理組織が作られており、共同・連携して、国土の水利事業と維持を行っている。

 オランダのワークシェアリングが<ポルダー>モデルと名付けられたのは、国内にいる様々の立場の人々の「連帯」に基づく協働によって、国家経済を対外的に強化するという目的で実施されたからだ。政府・企業・労働者という3者が、お互いの立場や利益を尊重しながら、歩み寄って、自国の経済を健全で競争力の高いものとして維持しようとした。その一部がまさに、日本でいわれるところの「ワークシェアリング」だった。「連帯感」を生むために、企業家や既得権を持つ就業者が自らの利益を譲歩して、低所得労働者や失業者に労働の機会を与え、逆に、労働者は、企業側への賃上げ要求を自主抑制することで、経済低迷期に、企業が新規事業への技術革新への投資力を低下させたり、インフレ・物価高による欧州市場での対外競争力を低下させることのないようにしようとした。無節制な賃上げ要求は、人件費の高騰によって生産物の価格を押し上げ、ひいては欧州や世界で市場競争力の低下につながる。こうして経営者の首を締めればは、最終的には失業率の増大という形で、労働者の解雇につながることが目に見えているからだ。

 また、ポルダーモデルが目指した失業率の低下は、なかでも、新しい知識や技術・情報を学ん出来たばかりの若年労働者や、国家資産によって育成された高学歴であるにもかかわらずその成果を社会に還元できないで家庭にとどまる女性たちの雇用機会を増やすことに焦点が置かれてもいた。未来を担う世代に、また、これまで家庭にこもってしまっていた女性に雇用機会を提供することで、社会参加意識を育て、社会に「連帯感」を醸成することが、ポルダー・モデルの社会的な意義であったともいえよう。

 この「連帯感の醸成」という観点からみて、ポルダーモデルを生んだ「ワッセナーの合意」(1982年)という政労使三者の合意は、そこに至るプロセスを、どれだけ、市民が共有しているか、ということが大変重要な眼目にあったと言い換えることもできる。

 政策決定のプロセスを市民が共有するためには、マスメディアの力が非常に期待される。
 この点で、オランダのマスメディアは、ポルダーモデルよりも、さらにずっと以前から、市民の社会参加意識の醸成の役割を、きわめて有効的に果たしてきた。

 前回の記事で書いた、先週の「金融危機対策の経済回復プラン」を巡る政労使合意に至る話し合いが3週間にわたって続けられる間、各新聞や公共放送を使用する各種の放送団体は、この間の動きを独自の視点でつぶさに報道した。それぞれ、議論・討論の場を設け、話し合いに並行して、各政党の意見、労使それぞれの代表者、市民の意見が毎日のように取り上げられた。その合間合間には、政労使の話し合いの当事者である、首相・副首相、企業代表、組合代表らも、生放送でインタビューに応じる。識者らが集まって、首相や財務大臣、各政党の党首などのパフォーマンスを批評する。それは、市民である視聴者の立場からすると、ジャーナリストを通じて様々の立場の意見をリーダーらにぶつけ、反応をうかがう機会であり、政治家や労使代表にとっては、みずからの立場を表明し、視聴者を説得し、自らの選択をフィードバックする重要な機会なのである。

 こうしたマスメディア上のやりとりそのものが、市民に「声が聞かれている」という安心感と、「議論に加わっている」という社会参加意識、そして、政策決定後には、それを成功させようという「自己責任」意識につながる。つまり「連帯感」の醸成そのものだ。

 しかし、日本のワークシェアリングの議論には、こういう、マスメディアの役割が完全に欠落している。
 官僚が用意した「記者クラブ」での公式発表を、経験の少ない新米記者が「受動的に」受け止め筆記し、新聞紙上に転写するだけのメディアでは、市民に参加の機会は生まれない。こういう脆弱なメディアからは「連帯感」は生まれない。「連帯感」のないワークシェアリングは、果たして、オランダのモデルを想起させる、オランダが実績を生んだような経済回復につながるものなのか。23日に発表された「日本型」ワークシェアリングの復活は、その前後の事情を見ていても、いかにも唐突で、市民参加の議論に基づいたものではなく、単なるなれあい談合の結果、これもまた相も変わらずのトップダウン政策の一つにすぎない、と落胆させられる。

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 日本りのワークシェアリングに「日本型」という冠がつけられていることにも、疑問点は多い。

 企業家、政治家、ある種の識者は、日本には独特の伝統的な雇用慣行があり、それがあるために、オランダのようなワークシェアリングの導入には無理がある、という議論を、おそらくはまことしやかにすることだろう。けれども、その日本的な雇用慣行とは、果たして、単なる文化の違いと片付けられるものなのか、それとも、近代化の遅れそのものなのか。後発の近代化を遂げた国は、法制度としては西洋型の近代民主制度を銘打っていながら、内実として、それに矛盾した前近代的な制度を温存していることが多い。そういう意味で、日本はこの、不自然な近代化のゆがみを典型的に表している社会であるし、こうしたゆがみは、中国やインドをはじめ、後発で急速な近代化を実現した国に多かれ少なかれみられるものだ。一方で、西洋的な価値意識に基づく、近代市民社会の理想がありながら、内実として、伝統的に市民意識が育っていないか、抑制され続けてきた国は、非西洋に多い。日本の今の閉塞状況は、まさに、そうした社会的病理の典型例であり、これを日本がどう独自の力で乗り越えられるかは、これらの後発非西洋社会で、近未来に予測される社会問題に、一つの普遍的な解決策をモデルとして提示できるかどうか、という風に置き換えることもできると思う。

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 日本独特の雇用慣行の特徴として、最も顕著なものに、年功序列制度と企業別労働組合があげられる。

 年功序列制度は、労働者の、実力・実質的な意味での資格・経験などに基づかず、単なる勤続年数だけで序列を決めるという点で、前近代的な性質を持っている。昨今、一部で導入が求められているジョブカード制度や、キャリアアップと称する訓練も、実質的な実力よりも年功序列が優先した制度では有効に機能しないのではないか。もともと、学校教育そのものが、確固とした一定の能力達成を条件とした、内実のある卒業資格によってではなく、単なる、相互競争だけで生徒を選別する制度だ。入試制度が幅を利かせ、実力よりも学歴が優先される雇用慣行の中で、ジョブカードや訓練の有効な発展は望めない。

 さらに、雇用機会の創出を確信に据えるワークシェアリングの実現の前に、大きく立ちはだかっているのは、企業別労働組合の慣行だ。これは、オランダの実情と照らし合わせてみると、一目瞭然としてくる。

 オランダでは、業種別労働組合が普通で、各業種(セクター)ごとに、毎年、労使協定(CAO)が更新される。CAOには、次の10大項目を盛り込むことが法律で義務付けられている。これが、ワークシェアリングの推進において非常に大きな役割を果たしている。

1.労働時間
2.俸給体系
3.職務評価基準
4.休暇規則及び労働時間短縮規則
5.残業規則
6.疾病時対応規則
7.労働環境と安全についての規則
8.(早期)退職規則
9.解雇規則
10.専門職権

 つまり、業種別に決められた、すなわち、企業の壁を越えたCAOが存在することで、労働者は、同一条件のもとで、同じ業種の企業間を自由にジョブハンティングしながら移動できる。同じ業種の企業は、少なくとも、CAOの10原則に関する限り、全く同じ条件で、雇用機会を提供しなくてはならないからだ。

 これは、企業の市場ではなく、労働者の雇用市場の公正という、日本の現状からは実現が極めて危ぶまれる事態を意味している。

 日本の、企業内労働組合では、職員に俸給を支払い、仕事の内容を決める経営者と、それに従順に従う以外にない労働者の間には、公正で平等の関係は約束されない。年功序列制が、さらにそれに加わるため、労働者は、たとえ自分には同意できない劣悪な経営であっても、ただじっと我慢して忠実に仕事を続けていさえすれば、やがて経営者の立場になることも期待される。技術革新や経営改革は起こりにくく、社内での不正も生じやすい。
 同業種であっても、同業種組合がないために、労働者の自立を保障する連帯がなく、企業間競争は、生産効率だけをめぐって行われることになり、よりよい労働条件を競い合うことはあり得ない。労働者の権利が生産効率のために犠牲となりやすい状況が容易に生まれる。
 企業(経営者)にとっては、職員を劣悪な条件下で酷使できるわけで、効率化が図りやすい。一見、家族経営に見せかけてはいるが、安くて、思うように動かせる労働者をいくらでも使えるという構図だ。しかし、これは、本当に企業にとって有用な制度なのだろうか。こうした状態が長く続けば、職員の就労意欲は低下し、企業の技術革新や経営の抜本的な改革には取り組みにくくなるのではないか。また、若年労働者が持っている新しい情報や技術・知識は生かされにくく、したがって、対外的な競争には非常に弱い立場とならざるを得ない。
 
 平たく言えば、労働者は、その企業の上司から、「ぶつぶつ言わずに仕事が終わるまで残業しろ」と言われたら、それに従う以外に選択肢がなく、「休暇などをそんなにとっていたら、B社に負けるぞ。負けていいのか、お前の会社が。それで会社がつぶれたら、元も子もないだろ」と脅されれば、業種別労働者の組合というバックアップがないために、返す言葉もなく、残業手当も、休暇もなく、働きづめに働いて、過労死、うつ病候補にならざるを得ないしくみになっている、ということだ。

 これでは、自主的な社会参加意識や自己責任を涵養し、労働者自らがワーク・ライフ・バランスを選択するワークシェアリングの精神を具体的に実現できるわけがない。

 このように、オランダのポルダーモデルが有効に機能できたのは、業種別労働組合があったからだ。上にあげたように、CAOの中には、同業種の労使間の約束として、共通の休暇規則、残業規則、労働時間短縮規則が盛り込まれている。だから、労働者は、自分が就業している企業がそれらの規則を守っていなければ、いつでも、他の企業に転職していく。CAOがあるからこそ、誰はばかることもなく、安心して、ワーク・ライフ・バランス、男女の役割分担を、自分なりに選択することができる。

 業種別組合を基礎とした労使協定CAO があるおかげで、障害者の自立も促された。

 オランダでは、労働市場に関する限り、<障害者>という別のカテゴリーは存在しない。
 障害者は、疾病による、一般の「長期労働不能者」として一般労働者と同じ待遇を受ける。障害者たちは、長期労働不能者と共に、適正業種を想定して、個別に就労能力の判定をうける。これらの長期労働不能者は、通常の健常労働者の就労能力を1とした場合、何%の就労能力を持っているのかと判定される。判定基準は、科学的に証明された共通の基準が全国一律に適用される。
 したがって、障害者を含む長期労働不能者は、ポルダーモデルによって実現した、正規のパートタイム就業を利用することにより、就業による収入と、それを補完する部分的な障害者手当とを組み合わせて、自立的に生活できる。「正規」のパートタイムであるから、俸給は、同一労働同一賃金の原則に従って支払われ、年金積立や保険制度も適用される。
 だから、障害者であっても、就業している職種によって、一般の業種別労働組合の正規会員として登録されている。つまり、CAO協定の対象になっているということだ。

 教職員組合の例をとってみよう。
 教職員の資格を持つものは、この組合に属することで、教職員組合のCAOの規定の対象になる。CAOは、業種ごとに、俸給体系を規定しているので、この教員が、私立学校に勤めようが、公立学校に勤めようが、いかなる学校に勤めようとも、つまり、雇用者が市であれ私立法人であれ、俸給体系や労働時間、労働条件、休暇規則、解雇規則などには一切何らの違いもない。

 つまり、企業経営者が、質の高い労働者を採用したいと思えば、CAO協定に基づく、業種内に共通の規定を順守したうえで、さらに労働者にとって魅力的な職場を提供しなければ、よい人材を確保できない、ということだ。

 おそらく、日本の企業経営者には溜息がでるような話、こんな不景気にそんなに労働者を甘やかす金はない、と嘯くことだろう。だが、オランダのワークシェアリングは、そういう不景気のどん底であったからこそ実施された英断だった。
 日本企業が国際競争力を弱めている最大の原因は、従順で、革新意欲がなく、新しいアイデアを生み出す思考力もなく、先進の技術や情報を持った若者の発言を認めない日本の雇用慣行をあまりにも温存していることではないのか。

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 ワークシェアリングの導入は、単に雇用創出という意味だけではなく、おそらく、日本社会の行き詰まりを解決し、日本社会の雇用文化を大きく180度転回し、活力のある社会を生み出し、人々の幸福感を回復する可能性を持つ、数少ない施策の一つであると思う。それだけに、安易な導入は避けるべきだと思う。名前だけが先行して、元の主旨が伝わらず、政労使の代表者だけで、市民には見えない議論で、あたかも実現努力をしたかに見せかけるのは、眉つばものだ。

 ワークシェアリングは、誰よりも、失業者、あるいは、失業と隣り合わせにいる労働者のためのものだ。これらの人々が、能力に応じた適切な雇用機会を与えられることで、格差が是正されなければ、「連帯」感のある社会は創出できない。日本人の幸福度を向上させるための条件は、この連帯感の創出と無関係ではありえない。






2009年3月26日木曜日

金融危機緊急経済回復プランの発表をめぐって


 米国のサブプライムローンに始まる世界規模の金融危機は、世界中の国々で、先行き不安を示しています。産業・経済市場のグローバル化によって、相互の依存度が著しく高くなっている中、世界規模の不況は、どこからきっかけをつかむのか、お互いにお互いの動きを察しつつも、先を読むことが難しく、具体的な対策を打ち出しにくい、前例のない状況を迎えています。
 
 そんな中で、日本では、数日前、突如として、「政労使三者が合意、7年ぶりに「日本型」ワークシェアリング」という文字が各新聞紙上に躍りました。それに至る議論もほとんど見られず、その後、発表された内容をめぐって展開される議論もほとんど続かなかったように思います。
 ワークシェアリングの元祖はオランダのポルダーモデルです。しかし、「日本型」ワークシェアリングとして示されている内容は、元祖のオランダのポルダーモデルには似ても似つかず、元来、ポルダーモデルを今採用するならば、苦境の日本経済と労働市場にかなりの効果を上げるのではないか、と思われるこの政策も、市民の議論を巻き込むどころか、なれあい合意に終わった感があり、未来に明るい見通しを開く、何よりも、労働市場で活動する一般市民にが未来に楽観を抱くことのできる、インパクトのある転換にはならなかったようです。

 他方、オランダでは、70年代の長い長い不況をもたらした「オランダ病」に奇跡の回復を与えた「パートタイム就業の正規化と賃上げ要求抑制という「ポルダーモデル」(日本では、オランダモデルとかワークシェアリングの名で知られるが、この用語では英語検索は無理)の切り札は、今回の危機にはもうありません。ただ、危機状況にあって、このポルダーモデルという労使協調の枠組みが、うまくいけば再び功を奏するかもしれない、という期待は若干あります。
(ポルダーモデルについては拙著「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」をご参照ください)

 昨日、3週間の協議を経て発表された、現連合政権の「金融危機緊急経済回復プラン」の発表の様子と、それに対する反応について、報告します。金融危機に対するオランダの取り組みは何なのか、また、日本の取り組みとどこがどう違うのか、考えてみたいと思います。


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 今回の金融危機のニュースが伝わった当初(昨年9月)、オランダの経済は、ヨーロッパ内でも優等生(失業率は2.9%で欧州連合内最低)でしたし、経済活動も非常に健全と、ボス財務大臣の落ち着いた、国民を安心させるような態度と、人々のそれに応じた楽観とで、危機感はあまりなかったように思います。その後に続いた、ABN-AMRO銀行のベルギーからの奪還ドラマでも、オランダの選択はなかなかしたたかで賢明であったと思われます。

 しかし、この楽観ムードは、前回述べた、CPB(経済政策分析局)の経済見通しの発表後、急速に変化、楽観は一気に悲観へと変わり、世論にも、ひとびとの先行き不安を示す傾向が著しく上昇しました。いきおい、企業経営者側からも、労働者の側からも、政府はどういう方針で経済回復を推進するのか、一日も早く示せ、と迫る声が日増しに高まってきていました。また、つい先ごろ、2008年にノーベル経済学賞を受章した世界的に名高いアメリカ人経済学者ポール・クルーグマンが、欧州の金融危機対策が消極的であることに落胆している、というコメントを述べたことでも、政府に対する人々の圧力と期待は高まっていたと思われます。

 「キリスト教民主連盟」(CDA)を中心に、「労働党」(PvdA) と少数派の「キリスト教連合」(CU)とからなる元連合政権は、この3週間にわたって、危機対策プランのための話し合いを続けてきました。月曜日(23日)に予定されていた合意達成は難航し、ようやく24日夜遅く合意、昨25日の発表となりました。

 危機対策プランの骨子は、①2009年と2010年は、「持続可能性の高い」「革新的な」企業や生産を優先して、刺激を与えるために国庫投資を続け財政緊縮は2011年からしかやらない、②一般老齢年金AOWの受給年齢を65歳から67歳に引き上げる案に関し、向こう半年以内に、労使間協議で対案を提示できれば、検討する、という二つでした。

 ①の、向こう2年間にわたる経済刺激活性化策のための国庫投資額は、600億ユーロ。この投資により、不景気の終点時点で、「より新しく、清潔で、より効率的な経済が存在していることを目指す」とのことです。不景気回復を予想した2011年には、500億ユーロの財政緊縮が予定されています。
  ②のAOW(一般老齢年金)の受給資格年齢を65歳から67歳に上げるという案は、連合を構成している3政党が、唯一共通して同意できる削減策であったといわれます。財政削減案の中には、住宅ローン課税控除の制限、特別疾病一般法(AWBZ=国民保険制度の一種)の改正、世帯内の無所得者または第2所得者に対する課税控除の廃止などが挙がっていたものの、連合内の3政党の足並みがそろわず、財政削減案としては提示できませんでした。

 さて、3週間にわたる集中的な討議を経て、危機対策プランを発表した政権に対して、野党は一様にブーイング、翌26日から、第2院(衆議院に相当)で、このプランをめぐる国会討議が始まっていますが、すでにさまざまの批判の声が聞かれています。
 革新的な野党の側からは、社会党SPが、危機状況は急進的に新しい選択を迫ることによって「文化変容」をもたらすものと期待していたにもかかわらず、今回のプランにはそういう展望が見られない、とし、民主66党(D66)も、「恐るべきほどに野心に欠ける」とこき下ろし、「緑の左派党」(GL)は、財政削減案として挙がっていた提案に対して、タブーを切り込む意欲が見られない、と批判。他方、保守派の野党側からは、自民党(VVD) が、古い政治慣習ですべての問題を先送りしているだけだ、と述べ、最も右翼的傾向の強い、移民排他で知られるヘールト・ウィルダーズ率いる自由党(PVV)も、何らの緊急感覚も見いだせない、古い体質の政治だ、と頭ごなしに批判しています。

 ただ、今回の、緊急プラン作成の途上で野党各党が不満を抱いていたのは、プランの内容についてだけではなく、それを生み出す過程そのものにもあったようです。
 なぜなら、緊急プラン作成に、野党の意見が反映されるよりも以前に、協議の席上に、組合の代表と企業代表とが参加していたからです。

 組合(代表)と企業(代表)とを、オランダでは、ソーシャル・パートナーと呼びます。つまり、雇用をめぐる、労働市場での、雇用者と被雇用者のことです。

 これは、冒頭に述べた「ポルダー・モデル」にも関係があります。
 オランダでは、1982年、長い経済低迷期を打開するために、政労使の間で「ワッセナーの合意」という、合意書が署名されました。それは、「失業対策の諸側面に関する中央諮問書」という正式名称の文書ですが、これにより、労働者は、企業側が、十分な賃上げの余裕を持っているにもかかわらず、賃上げ要求を低く抑えることで、インフレを抑制し、対外競争力が維持できることを優先したのです。その代わりに、企業側は、フルタイムとパートタイム就業の区別をなくすことを受け入れ、それによって、フルタイムと同じように、同一労働同一賃金、男女平等待遇の原則に基づくワークシェアリングが実現し、雇用機会の拡大と失業率の低下につながったという背景を持っています。

 この、普通、日本などでは非常に考えにくい雇用者と被雇用者の間の協調的な協働関係の基礎づくりをしてきたのは、1950年に設立されていた「社会経済評議会(SER)」という組織でした。SERは、以来、労使間の協議の場を提供してきたからです。

 つまり、SERは、ポルダーモデルの基礎としてなくてはならぬ団体だったのです。

 今回、経済回復プランを作成するにあたって、協議に加わっていたというのは、まさに、このSERで、野党が批判したのは、プランを立てるという政治政策設定の場に、野党よりも先に、SERが優先されていたことです。

 もっとも、今日、国会討議が始まるまえの昨日の新聞NRC(自由主義系)には、下記のように書かれています。
「当然、、野党は、明日、討議に際して、<ヤジの鍋釜騒動>を展開するだろう。また、それが、当然野党の役割でもある」と。

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 というようなわけで、今後しばらく、危機対策の経済回復プランに対しては、さまざまの議論が展開されることと予想されます。また、その議論を新聞やテレビが並行して追いかけることによって、徐々に世論が形成されていくと思われます。ポルダーモデルとは、そう言う、政策決定においても、その後においても、ずっと世の中に議論が継続していて、何らかの契機によって、進行、停滞、修正、逆行を小刻みに繰り返すシステムなのです。一見して効率は悪いように見える、しかし、そのおかげで、市民と政治家の極端な乖離を防ぎ、国に対する信頼感を維持し、市民が参加意識を感じられるシステムです。

 現に、この数日間、ハーグ市にある首相官邸で、協議が行われている間、ずっと、テレビでは、政治討論番組に、野党の党首らが招かれて、懸案の議論を同時進行で討論していました。また、首相のリーダーシップ、政権第2党である労働党党首のボス財務大臣(副首相)についても、危機対策における、首相との関係の取り方、発言の仕方などについて、大学の専門家など、識者が招かれ、さまざまに批判・助言が、公のメディアの上で続けられていました。

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 さて、1930年代以来の最大の経済危機を迎えている世界。1980年代に、政労使の協調「ポルダー・モデル」で危機を乗り越えたオランダは、ワークシェアリングへの転換という切り札はもう使えません。ただし、今も、この時の、労使協調をベースにした合意形成の記憶は新しく、それが、今でも、この国の、危機状況における「連帯意識」の基礎になっていることがはっきりと見て取れます。

 今回の危機を乗り越えるための方程式は、世界のどこを探しても見当たらない。また、お互いがお互いの動きに依存し合っているという意味では、今後の世界規模の経済の動きは、アメーバのように形を変えながら決まっていくのではないか、と思います。

 戦後間もなくの時期から、早、60年余りにわたって、強調的な多元主義・機会均等をベースとしたヨーロッパ連合のつながりと協力体制を生んできた欧州諸国ですが、金融危機を迎えて、各国の経済立て直し策のために、国ごとの「保護主義」に反動している傾向もごく若干ですが見え隠れし始めています。(自動車会社ルノーの工場閉鎖をめぐるフランスの政策など)多国間の平等な立場に基づく協調、開かれた共同に対する反動の動きです。こうした保護主義に対して当然批判があるとはいうものの、それでは、各国の自律的な体制と、ヨーロッパ全体の世界に向けての安定成長や権益との間の関係はどうなるのか。金融危機への対策は、このことを再考するための、「ヨーロッパ連合」にとっての大きな試練であるのかもしれません。

 そういう中で、果たして、ポルダーモデルに基づくオランダの選択は、成功するのか失敗するのか、当分の間、予断が許せません。

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 ただ、こういう場面をこの国にいて観察しながら、日本の状況に比べてみて、常に感じていることがいくつかあります。

 それは、危機の中にあって、①オランダ人が、左右どちらの意見を見ても、「連帯」による解決を求めようという前提だけは、共有の意識として持っていること、②野党からの批判はあったにせよ、ポルダーモデルが確立していることによって、労使間協調の形で、労働者の意見が反映される場があるということを、国民が確信し信頼していること、さらに③こういう「連帯」の意識や国の政策決定のプロセスへの「参加意識」をマスメディアが同時進行の議論を提示することで確実に一般市民の目に見える形で補強していることです。
 
 政策決定のプロセスが、国民の目にはっきりと見えること、また、そこに国民が影響を与えるパイプが残されていると感じられることは、社会に対する参加意識だけではなく、その政策の結果が見えてきたときに、帰結に対する責任意識を醸成すること、すなわち「連帯感」の強化に役立つものです。

 先週末、私は、もう一つのブログ「地球を渡る風に吹かれて」http://naokonet.blogspot.com/の中で、日本における「日本型ワークシェアリング」について、その決定過程をめぐる状況についてのコメントを書きました。

 施策が功を奏するか否か、また、その施策が「持続性」の高いものであるかは、その策定に対して参加意識を持っている人の数がどれだけいるか、世論がどれだけ政治家の議論に密着して作り上げられ、政治家の無責任を防止するものとして機能しているか、にかかっていると思います。これこそが、まさに民主主義の姿なのです。

 モンスターのごとき大恐慌の怒涛を、人間社会を襲う、一つの大きな病気とたとえるならば、オランダは、十分にコンディションの良い体を病気がおそって来た状態、日本は、コンディションが最悪の上に厄介な病気がさらに襲ってきた状態、という風に見えます。

 マイナス成長と急激に広がった格差のある日本を、再び活力のある社会へと変える重要な鍵の一つは、政治家の堕落と腐敗だけではなく、それを表から批判しきれない民度の低さ、とりわけ、エリートと呼ばれる人々が批判の言論を忌憚なく展開できない、その受け皿になるべきはずのマスメディアの脆弱さを、アメリカやヨーロッパ並みの確固としたものに立て直すことであると思います。もしも、そのマスメディアを言いように牛耳っているのが、政治家自身と官僚なのであれば、その近視眼的で個人の私利私欲に傾く卑劣と、それによって民主主義の基礎を自ら瓦解させようとしている態度とは、厳しく追及されるべきです。しかし、その追求を誰がするのでしょうか。マスメディアが、民主社会の第3の権力として機能していないことの問題は、ここにあります。

 もしかすると、今の日本は、本当に抜け道を持たない閉塞の中にあるのかもしれません。しかし、エリートの質と民度とを高めるために考えられる唯一の方法は、学校で家庭で、現実の社会で起こっていることを忌憚なく話し合う場を設けることにほかなりません。それは、誰かの意見が、他のものよりも優れているだろう、と識者を探し出すためにではなく、それぞれが、全く平等な立場で、「自分はどう思うか」を考える場を設けるためです。それが作り出せないのであれば、日本の未来はなきに等しいものと思います。

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 戦後日本の最大の失敗は、日本に住むさまざまの層と背景の人々を、彼らの生活条件と未来の幸福を決める政治に、みずから意欲的に参加させることに失敗したことであると思います。