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2009年3月30日月曜日

連帯と業種別組合:ワークシェアリング(ポルダーモデル)を可能にしたもの

 日本でも7年ぶりに再びワークシェアリングに取り組むことが政労使の合意で決まったという。(関連記事:http://naokonet.blogspot.com/)世界規模の金融危機、人件費の高騰、基幹製造業の生産低下と円高の煽りも受けた輸出額の急激な減少などで、日本経済の先行き不安要因は一気に高まり、失業率も今後ますます増えることが予想される。特に、すでに社会問題になって久しいフリーター、ニート、ワーキングプアなど、将来に展望を描けない若者の人口が急増している。一方で、高齢化社会を支える若年就労人口の減少を予測させる少子化問題が取りざたされているというのに、若者の働く権利・生きる権利を尊重する活力のある動きは見られず、巷では、いよいよワークシェアリングを実現する以外に解決策は見当たらないのでは、という声が増えてきている。そんな中での、7年ぶりの政労使の合意というが、果たして、それは、本当に効力のあるものになるのだろうか。

 ワークシェアリングの考え方は、オランダのポルダーモデルに起因するところが大きい。実際、オランダは、1982年、ワークシェアリングを実現することになった「ワッセナーの合意」(政労使合意)によって、低迷していた経済を目覚ましく好転させ、90年代の経済好調期を迎えることになった。このオランダの例は、当時のオランダに、ある意味で状況が似ていなくもない今の日本に一つの切り札を提供しているように見える。だが、今回の7年ぶりの「政労使」合意によるワークシェアリングへの再度の踏み出しは、本当に、切り札として有効なのだろうか。

 そういう観点から、オランダのワークシェアリングの状況を少し詳細にみてみたい。

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 実をいうと、オランダでは、「ワークシェアリング」と言ってもだれも何のことかわからない、というのが多分現実であろう。この言葉は、オランダではほとんど聞かれることがないからだ。
 日本でワークシェアリングが議論されるとき、その典型例としてオランダの経験がよく引き合いに出される。しかし、日本では、残念なことに、これを「オランダ・モデル」という言葉で表現している。おそらく、英語のわかる人が、この言葉を直訳してHolland ModelとかDutch Modelなどという語にして検索してみても、目的のワークシェアリングについてのオランダの背景情報には、おそらくなかなか行きつかないのではないかと思う。

 オランダでは、ワークシェアリングは「ポルダー・モデル」として知られている。名付け親はイギリス人の経済学者らしい。そして、この語は、オランダのワークシェアリングの本質を実に的確に示した言葉であるといえる。それは、単に、「仕事分け合う」というだけのものではなく、国内における失業率の低下と対外的な経済競争力の維持を目的として、雇用機会の創出と、それに伴う既存の雇用機会における労働時間の削減、また、賃上げ要求の抑制に基づく企業の競争力の維持、そして、これらの施策を促進するための法規的な制度の整備を内容とする、総合的な経済回復プランだった。

 <ポルダー>とは、人工の干拓地のことだ。河口のぬかるみの土地の周りをダイク(堤防)で囲み、風車などを使ってポンプで堤防内の水をくみ出して(干拓して)作った土地だ。オランダの全人口の約6割が、このポルダーといわれる海抜0メートル以下の土地に暮らしている。
 このような海抜下の土地ポルダーでは、住居や作物・家畜そして人命を押し流す洪水が最も怖い。そのため、オランダには、地方に分権された一般行政組織とは独立に、全国規模の水管理組織が作られており、共同・連携して、国土の水利事業と維持を行っている。

 オランダのワークシェアリングが<ポルダー>モデルと名付けられたのは、国内にいる様々の立場の人々の「連帯」に基づく協働によって、国家経済を対外的に強化するという目的で実施されたからだ。政府・企業・労働者という3者が、お互いの立場や利益を尊重しながら、歩み寄って、自国の経済を健全で競争力の高いものとして維持しようとした。その一部がまさに、日本でいわれるところの「ワークシェアリング」だった。「連帯感」を生むために、企業家や既得権を持つ就業者が自らの利益を譲歩して、低所得労働者や失業者に労働の機会を与え、逆に、労働者は、企業側への賃上げ要求を自主抑制することで、経済低迷期に、企業が新規事業への技術革新への投資力を低下させたり、インフレ・物価高による欧州市場での対外競争力を低下させることのないようにしようとした。無節制な賃上げ要求は、人件費の高騰によって生産物の価格を押し上げ、ひいては欧州や世界で市場競争力の低下につながる。こうして経営者の首を締めればは、最終的には失業率の増大という形で、労働者の解雇につながることが目に見えているからだ。

 また、ポルダーモデルが目指した失業率の低下は、なかでも、新しい知識や技術・情報を学ん出来たばかりの若年労働者や、国家資産によって育成された高学歴であるにもかかわらずその成果を社会に還元できないで家庭にとどまる女性たちの雇用機会を増やすことに焦点が置かれてもいた。未来を担う世代に、また、これまで家庭にこもってしまっていた女性に雇用機会を提供することで、社会参加意識を育て、社会に「連帯感」を醸成することが、ポルダー・モデルの社会的な意義であったともいえよう。

 この「連帯感の醸成」という観点からみて、ポルダーモデルを生んだ「ワッセナーの合意」(1982年)という政労使三者の合意は、そこに至るプロセスを、どれだけ、市民が共有しているか、ということが大変重要な眼目にあったと言い換えることもできる。

 政策決定のプロセスを市民が共有するためには、マスメディアの力が非常に期待される。
 この点で、オランダのマスメディアは、ポルダーモデルよりも、さらにずっと以前から、市民の社会参加意識の醸成の役割を、きわめて有効的に果たしてきた。

 前回の記事で書いた、先週の「金融危機対策の経済回復プラン」を巡る政労使合意に至る話し合いが3週間にわたって続けられる間、各新聞や公共放送を使用する各種の放送団体は、この間の動きを独自の視点でつぶさに報道した。それぞれ、議論・討論の場を設け、話し合いに並行して、各政党の意見、労使それぞれの代表者、市民の意見が毎日のように取り上げられた。その合間合間には、政労使の話し合いの当事者である、首相・副首相、企業代表、組合代表らも、生放送でインタビューに応じる。識者らが集まって、首相や財務大臣、各政党の党首などのパフォーマンスを批評する。それは、市民である視聴者の立場からすると、ジャーナリストを通じて様々の立場の意見をリーダーらにぶつけ、反応をうかがう機会であり、政治家や労使代表にとっては、みずからの立場を表明し、視聴者を説得し、自らの選択をフィードバックする重要な機会なのである。

 こうしたマスメディア上のやりとりそのものが、市民に「声が聞かれている」という安心感と、「議論に加わっている」という社会参加意識、そして、政策決定後には、それを成功させようという「自己責任」意識につながる。つまり「連帯感」の醸成そのものだ。

 しかし、日本のワークシェアリングの議論には、こういう、マスメディアの役割が完全に欠落している。
 官僚が用意した「記者クラブ」での公式発表を、経験の少ない新米記者が「受動的に」受け止め筆記し、新聞紙上に転写するだけのメディアでは、市民に参加の機会は生まれない。こういう脆弱なメディアからは「連帯感」は生まれない。「連帯感」のないワークシェアリングは、果たして、オランダのモデルを想起させる、オランダが実績を生んだような経済回復につながるものなのか。23日に発表された「日本型」ワークシェアリングの復活は、その前後の事情を見ていても、いかにも唐突で、市民参加の議論に基づいたものではなく、単なるなれあい談合の結果、これもまた相も変わらずのトップダウン政策の一つにすぎない、と落胆させられる。

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 日本りのワークシェアリングに「日本型」という冠がつけられていることにも、疑問点は多い。

 企業家、政治家、ある種の識者は、日本には独特の伝統的な雇用慣行があり、それがあるために、オランダのようなワークシェアリングの導入には無理がある、という議論を、おそらくはまことしやかにすることだろう。けれども、その日本的な雇用慣行とは、果たして、単なる文化の違いと片付けられるものなのか、それとも、近代化の遅れそのものなのか。後発の近代化を遂げた国は、法制度としては西洋型の近代民主制度を銘打っていながら、内実として、それに矛盾した前近代的な制度を温存していることが多い。そういう意味で、日本はこの、不自然な近代化のゆがみを典型的に表している社会であるし、こうしたゆがみは、中国やインドをはじめ、後発で急速な近代化を実現した国に多かれ少なかれみられるものだ。一方で、西洋的な価値意識に基づく、近代市民社会の理想がありながら、内実として、伝統的に市民意識が育っていないか、抑制され続けてきた国は、非西洋に多い。日本の今の閉塞状況は、まさに、そうした社会的病理の典型例であり、これを日本がどう独自の力で乗り越えられるかは、これらの後発非西洋社会で、近未来に予測される社会問題に、一つの普遍的な解決策をモデルとして提示できるかどうか、という風に置き換えることもできると思う。

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 日本独特の雇用慣行の特徴として、最も顕著なものに、年功序列制度と企業別労働組合があげられる。

 年功序列制度は、労働者の、実力・実質的な意味での資格・経験などに基づかず、単なる勤続年数だけで序列を決めるという点で、前近代的な性質を持っている。昨今、一部で導入が求められているジョブカード制度や、キャリアアップと称する訓練も、実質的な実力よりも年功序列が優先した制度では有効に機能しないのではないか。もともと、学校教育そのものが、確固とした一定の能力達成を条件とした、内実のある卒業資格によってではなく、単なる、相互競争だけで生徒を選別する制度だ。入試制度が幅を利かせ、実力よりも学歴が優先される雇用慣行の中で、ジョブカードや訓練の有効な発展は望めない。

 さらに、雇用機会の創出を確信に据えるワークシェアリングの実現の前に、大きく立ちはだかっているのは、企業別労働組合の慣行だ。これは、オランダの実情と照らし合わせてみると、一目瞭然としてくる。

 オランダでは、業種別労働組合が普通で、各業種(セクター)ごとに、毎年、労使協定(CAO)が更新される。CAOには、次の10大項目を盛り込むことが法律で義務付けられている。これが、ワークシェアリングの推進において非常に大きな役割を果たしている。

1.労働時間
2.俸給体系
3.職務評価基準
4.休暇規則及び労働時間短縮規則
5.残業規則
6.疾病時対応規則
7.労働環境と安全についての規則
8.(早期)退職規則
9.解雇規則
10.専門職権

 つまり、業種別に決められた、すなわち、企業の壁を越えたCAOが存在することで、労働者は、同一条件のもとで、同じ業種の企業間を自由にジョブハンティングしながら移動できる。同じ業種の企業は、少なくとも、CAOの10原則に関する限り、全く同じ条件で、雇用機会を提供しなくてはならないからだ。

 これは、企業の市場ではなく、労働者の雇用市場の公正という、日本の現状からは実現が極めて危ぶまれる事態を意味している。

 日本の、企業内労働組合では、職員に俸給を支払い、仕事の内容を決める経営者と、それに従順に従う以外にない労働者の間には、公正で平等の関係は約束されない。年功序列制が、さらにそれに加わるため、労働者は、たとえ自分には同意できない劣悪な経営であっても、ただじっと我慢して忠実に仕事を続けていさえすれば、やがて経営者の立場になることも期待される。技術革新や経営改革は起こりにくく、社内での不正も生じやすい。
 同業種であっても、同業種組合がないために、労働者の自立を保障する連帯がなく、企業間競争は、生産効率だけをめぐって行われることになり、よりよい労働条件を競い合うことはあり得ない。労働者の権利が生産効率のために犠牲となりやすい状況が容易に生まれる。
 企業(経営者)にとっては、職員を劣悪な条件下で酷使できるわけで、効率化が図りやすい。一見、家族経営に見せかけてはいるが、安くて、思うように動かせる労働者をいくらでも使えるという構図だ。しかし、これは、本当に企業にとって有用な制度なのだろうか。こうした状態が長く続けば、職員の就労意欲は低下し、企業の技術革新や経営の抜本的な改革には取り組みにくくなるのではないか。また、若年労働者が持っている新しい情報や技術・知識は生かされにくく、したがって、対外的な競争には非常に弱い立場とならざるを得ない。
 
 平たく言えば、労働者は、その企業の上司から、「ぶつぶつ言わずに仕事が終わるまで残業しろ」と言われたら、それに従う以外に選択肢がなく、「休暇などをそんなにとっていたら、B社に負けるぞ。負けていいのか、お前の会社が。それで会社がつぶれたら、元も子もないだろ」と脅されれば、業種別労働者の組合というバックアップがないために、返す言葉もなく、残業手当も、休暇もなく、働きづめに働いて、過労死、うつ病候補にならざるを得ないしくみになっている、ということだ。

 これでは、自主的な社会参加意識や自己責任を涵養し、労働者自らがワーク・ライフ・バランスを選択するワークシェアリングの精神を具体的に実現できるわけがない。

 このように、オランダのポルダーモデルが有効に機能できたのは、業種別労働組合があったからだ。上にあげたように、CAOの中には、同業種の労使間の約束として、共通の休暇規則、残業規則、労働時間短縮規則が盛り込まれている。だから、労働者は、自分が就業している企業がそれらの規則を守っていなければ、いつでも、他の企業に転職していく。CAOがあるからこそ、誰はばかることもなく、安心して、ワーク・ライフ・バランス、男女の役割分担を、自分なりに選択することができる。

 業種別組合を基礎とした労使協定CAO があるおかげで、障害者の自立も促された。

 オランダでは、労働市場に関する限り、<障害者>という別のカテゴリーは存在しない。
 障害者は、疾病による、一般の「長期労働不能者」として一般労働者と同じ待遇を受ける。障害者たちは、長期労働不能者と共に、適正業種を想定して、個別に就労能力の判定をうける。これらの長期労働不能者は、通常の健常労働者の就労能力を1とした場合、何%の就労能力を持っているのかと判定される。判定基準は、科学的に証明された共通の基準が全国一律に適用される。
 したがって、障害者を含む長期労働不能者は、ポルダーモデルによって実現した、正規のパートタイム就業を利用することにより、就業による収入と、それを補完する部分的な障害者手当とを組み合わせて、自立的に生活できる。「正規」のパートタイムであるから、俸給は、同一労働同一賃金の原則に従って支払われ、年金積立や保険制度も適用される。
 だから、障害者であっても、就業している職種によって、一般の業種別労働組合の正規会員として登録されている。つまり、CAO協定の対象になっているということだ。

 教職員組合の例をとってみよう。
 教職員の資格を持つものは、この組合に属することで、教職員組合のCAOの規定の対象になる。CAOは、業種ごとに、俸給体系を規定しているので、この教員が、私立学校に勤めようが、公立学校に勤めようが、いかなる学校に勤めようとも、つまり、雇用者が市であれ私立法人であれ、俸給体系や労働時間、労働条件、休暇規則、解雇規則などには一切何らの違いもない。

 つまり、企業経営者が、質の高い労働者を採用したいと思えば、CAO協定に基づく、業種内に共通の規定を順守したうえで、さらに労働者にとって魅力的な職場を提供しなければ、よい人材を確保できない、ということだ。

 おそらく、日本の企業経営者には溜息がでるような話、こんな不景気にそんなに労働者を甘やかす金はない、と嘯くことだろう。だが、オランダのワークシェアリングは、そういう不景気のどん底であったからこそ実施された英断だった。
 日本企業が国際競争力を弱めている最大の原因は、従順で、革新意欲がなく、新しいアイデアを生み出す思考力もなく、先進の技術や情報を持った若者の発言を認めない日本の雇用慣行をあまりにも温存していることではないのか。

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 ワークシェアリングの導入は、単に雇用創出という意味だけではなく、おそらく、日本社会の行き詰まりを解決し、日本社会の雇用文化を大きく180度転回し、活力のある社会を生み出し、人々の幸福感を回復する可能性を持つ、数少ない施策の一つであると思う。それだけに、安易な導入は避けるべきだと思う。名前だけが先行して、元の主旨が伝わらず、政労使の代表者だけで、市民には見えない議論で、あたかも実現努力をしたかに見せかけるのは、眉つばものだ。

 ワークシェアリングは、誰よりも、失業者、あるいは、失業と隣り合わせにいる労働者のためのものだ。これらの人々が、能力に応じた適切な雇用機会を与えられることで、格差が是正されなければ、「連帯」感のある社会は創出できない。日本人の幸福度を向上させるための条件は、この連帯感の創出と無関係ではありえない。






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