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2010年8月16日月曜日

一年中で最も心が塞ぐ日

今年も八月一五日がやってきた。
私が住むハーグ市にある、蘭印日本軍捕虜収容所犠牲者追悼碑(Indische monument)で、追悼式が行われる日だからだ。

終戦から六五年目を迎える今年、追悼式にはベアトリクス女王も出席し、追悼碑に花輪を捧げられた。

戦時中、蘭印(現在のインドネシア)で日本軍の捕虜になって四年近くもの捕虜生活を余儀なくされた、一般市民だった(軍人ではなかった)オランダ人たちが、この日全国から集まってくる。夫や妻や親や兄弟・姉妹を、日本人の手によって奪い取られた人たちだ。当時乳飲み子、幼児で、捕虜生活の中で親兄弟を失った人も少なくない。 

追悼式の前に、付近の国際会議場に集まってくる人たちに、テレビのジャーナリストがインタビューをする。一人ひとりに苦い、辛い、生きている間、決して消えない思い出がある。毎年出席し、毎年花を添えていく人たちの心は、その日、何がしか癒されるのかもしれない。しかし、消えない過去の思い出と、それを抱えて生きなければならなかった人生のつらさはなくならない。
なぜ、自分と同じ人間が、ここまで、人の「尊厳」を無視した行為ができるのだろうか、というのが、当時被害者だったオランダ人たちの、日本人の行為についての反応の一つだ。

「戦争だったから」と片付けられるものなのかどうか、、、
「戦争をしていない」今も、日本人は、みずからの「尊厳」を守れない生き方を余儀なくされているのではないのか、戦前と同じように。そういう、上から、外からの強制をはねのけられない日本人とは一体何なのだろう。民主主義の時代に、跳ねのけることを遮っている力は、いったい何なのだろう、、、、日本人が「ものいえば、唇寒し」と感じさせられてしまう、その背後にある力は何なのか、こういう式典の度にそれを思う。

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「なぜきょうここに?」
というインタビューワーの質問に、
「ビルマ鉄道敷設の強制労働に駆り出されて死んだ父親の追悼のため」
「捕虜収容所で亡くなった母の追悼のため」
「失った兄弟のため」
と次々に応える参会者たちは、答えながら、顔が急に曇り、思い余って涙を流す人たちが後を絶たない。あの日、あの時からの人生の苦しさが一気に溢れてくるのだろう。

式には、首相、国会両院の議長、厚生大臣も参加する。国家行事だ。国営放送がその様子をつぶさに伝える。
ヨーロッパのある国で、国家行事として戦時中の日本軍がテーマになった追悼式が行われているという事実を、日本人のほとんどは知らない。それを誰も報道しない。右翼も左翼もなく、この式典の事実は伝えられ、知られるべきではないのか。

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かつて外務大臣だったハーグ市の現市長ファン・アルツェン氏は、自身も二人の叔母を日本占領期に亡くした、という。そして、
「オランダ人ならほとんどの人が、親せきに、日本軍の犠牲者がいるはずだ」と彼はいう。

今年の式典では、六〇年代の人気シンガーが、生まれて間もなく、日本占領軍によって母親を失ったこと、その後の人生を、多くの人々が、沈黙の中に押し込めて生きなければならなかったことを伝えるスピーチを行った。

牙を向け続けても、日本から得られるものは何もない。日本の公的な賠償は確かに終わり、期限も切れている。日本人は、「謝った」ところで、またぞろ、国内で政治議論が起こるだけ、靖国参拝は続くだけ、もう仕方がない、と諦められているのか、日本政府への怒りの言葉は、今、もう誰からも聞かれない。

日本人の引揚者の中にも、戦時中、そして、戦後に、捕虜として辛酸をなめた人は多いはずだ。その人たちと、このオランダ人犠牲者との間には、共有できる心境があるのではないか、と思う。
また、こういう戦時中の日本軍の悪口にまつわるテーマが出てくるたびに、日本の保守的な人々からは、「戦争がいけないのだから」「オランダだって帝国支配によって現地人を強制労働に駆り立て、差別していたではないか」という議論が起こってくる。

だが、それは水かけ論というものだ。

人間は、追い詰められ、武器を持たされたら、自分の生存のために何をやらかすかわからない。
その一点で、私たちは、オランダ人の犠牲者たちと、対話の道を開くべきなのだ。しかし、それを遮る力が、対話をさせない嫌な力が、日本社会にはある。

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式典の後には、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの大使らも花輪を添えた。しかし、日本から公式な参会者はいない。

人知れず、8月15日の午後は、オランダの通りを歩くことすら気が引ける。誰も何とも思っていないのかもしれないが、せめて、日本が、オランダとの不幸な過去について、オープンにかかわる態度、日本人の誰もが忌憚なく意見を言える環境を作ってくれていさえしたら、と思う。

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オランダでの追悼式典には、高齢者ばかりでなく、子どもの世代、孫の世代のオランダ人がたくさん参加している。スピーチには、毎年、高校生が一人選ばれる。小学生くらいの子どもたちも、おじいちゃんやおばあちゃんに手をひかれて、式に参加し、記念碑に花をささげて帰っている。

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追悼式典の後、一時間にわたって、インドネシアで日本軍兵士らの「慰安婦」として、若い身体をもぎ取られた女性たちを、オランダ人の人類学者とカメラマンとがインタビューしたドキュメンタリー映画が放映された。

「どうせ私たちのような子供を相手にやってみたかったんでしょう」とけらけら笑う老婆。恥ずかしさに、どんな顔をすればいいのかわからなかったのだろう。笑っている顔が、その日の情景を思い出してか俄かに曇り、いいようのないほどの悔しさと苦々しさを顔面に表わして、涙を流した。
「尊厳」を無視され、身体を侮辱された彼女たちの心が、どんなに、ズタズタに切り裂かれていたことか。

女ならば、「身体」だけを求めて、性欲の吐き捨て場として体を使われることが、人間としてどんなに辛い侮辱であるか、誰でもわかるはずだ。

「いったいいつまでこんなところに閉じ込められ、こんなことをさせられ続けるのだろう、とひとりで考えたわ。何か罪深いことをしているから、神様が罰を与えているのかしら、ひとりっきりでそんなことを考えていた」と、ほかの女性はつぶやいた。

一〇歳、一二歳で、兵士らの性行為の相手をさせられた女性たち。彼女らは、いったい、その後、どんなふうにして、「人を信じられるように」なったのだろう。

「あんなことをしたことは誰にも言えない。神様が許して下さるのかどうかわからない」
と彼女らはいう。

インタビューワーのオランダ人人類学者の女性が
「あなたはほかにどこにも行けない状態で、強制的にそういう行為をさせられたのでしょう。それは罪ではないでしょう」
といわれ、
「はずかしいのよ、罪なのよ」
と答える彼女たち。

「罪なんかではないわ、あなたのせいではないのだから」
と静かな口調で穏やかに諭すオランダ人に、その女性は、やっと理解者を得たかのように、流れてくる涙を静かに拭いた。

終戦直後、日本人兵士が去って行ったあとに、彼女たちは、何日間もの道のりを歩いて自分の村に帰ったという。そして、その語の人生を、「過去を隠して」か、村人からの「罵倒」を浴びながら暮らしたという。

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自分が生まれたその土地に、ある日、外国から兵士がやってきて、銃剣を突き付け、セックスを強制される。なんという哀しみであろう。

でも、彼女たちは、この深い深い哀しみを心の奥深く抱えて生き延びてきた。

愛のない、肉欲だけの男たちからからだを汚されたこの女性たちよりも、多分、そういう行為をした兵士たちの方が、みすぼらしい心を引きずった人生を余儀なくされたのではないのか。その兵士たちに本当に「選択の余地」はなかったのか。たった一度きりの人生で。
そういう環境の中で、自分らしい「選択」をすることなど、容易なことではなかったのだろう。
しかし、ではなぜ、戦後、そのことを日本人として語る場が得られなかったのだろう。語りたい人、自分の犯した行為に苦しんだ人は多かったはずだ。

そうした、良心の呵責を、皆で語る場がなかったこと、公に話をする場を奪われてしまったこと、それについて、日本人はもっと考えてみなくても良いのだろうか。なぜ、歴史は、そういう経過をたどったのか、と。

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イエ社会・タテ社会の日本。
多くの人々が誇る日本の「家系」に、女たちの名前はほとんど残されていない。みな「女」と記される存在でしかなかった。

性を売り、性を買う日本人が、知っておくべき歴史だ。


2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

はじめまして・・
読んでいて胸が熱くなりましたが、こんな事は歴史上では日常茶飯事では無かったかと思います。
我が身に引き当て考えると如何ともし難い恥辱になるけど、それをそれとして生きていくしか道が無いのも事実で・・
そう言うときは、祈りしか残されていないのかも??
イギリスやアメリカがインドやベトナム・イラク・アフガンでやった事と五十歩百歩の気がします。
だから、しょうがないじゃなくて、人間てその程度のものと達観した方が楽ですよね。

リヒテルズ直子 さんのコメント...

そう、戦争、侵略にはつきもの、かつてロシア軍がやった集団強姦とその後に残された女子供の死にざまの写真を見たことがあります。皆同じ、と言えば同じ。哀しみは、その場に、兵士としていて、選択肢がない状況に追い込まれていく、そして、その時はすでに「時遅し」と感じる人の心でしょう。ここで証言している女性たちも、実は、私の目には、ある意味で、人生を何とかまっとうしきった勝者なのでは、とも思います。でも、そういう人に個人的に出会い知り合ったら、そんな達観したことは言っていられません。彼女たちの屈辱への怒りが、女であり、日本人である私に、無言の矢を放ってきます。