「教育先進国リポートDVD オランダ入門編」発売

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2010年5月18日火曜日

ゴミ箱あさりジャーナリズム

 「他人の家のゴミ箱をあさってマスメディアにさらけ出すような国に私はすむ気はない」
 最近出たばかりの「ビネンホフ」という雑誌の内容にかみついたのは民主66党の党首ぺヒトルドだ。

 「ビネンホフ」とは字義どおりには「内廷」という意味。しかし実際には国会議事堂と議員室のある周辺を指す語で、今回発刊されたこの雑誌は、もともと有名人のスキャンダルを描く一般週刊誌「ウィークエンド」と、ややリベラルな知識人向けとはいえ、政治家や有名人の裏話にも立ち入る感が皆無とはいえないオピニオン誌HP/デ・テイト誌の両紙を出している出版社が、両誌の編集長の共同で発刊したものだ。来る6月9日に予定されている第二院(衆議院)議員選挙に先立って、政治家らのプライバシーを少し暴き、政治家らの人物像を描くことが目的であったものらしい。

 しかし、その内容はかなりひどい。148ページにわたるグラビア入りの雑誌には、多くの現職政治家や元政治家たちの私生活が取り上げられており、どんな家に住んでいるのか?住宅ローンは?アルコール使用料は?食生活の傾向や喫煙行動は?夫婦関係や不倫の経歴は?どんな申告をしているのか?などなど、しかも子どもたちの写真まで隠し撮りして掲載しているという。

 「ゴミ箱あさり」とかみついたぺヒトルド自身も、回収のために自宅前に出していたゴミ箱が取り去られ、そのゴミの内容がこまごまとこの雑誌に掲載されたという。

 日本やイギリスやアメリカのように、すでに長くグラビア・スキャンダル誌やスポーツ紙、一般週刊誌で、政治家や芸能人・知識人の私生活を暴き立てることに読者が慣れ切っている国では、今回の「ビネンホフ」という雑誌の中身など、驚くに当たらないかもしれない。「公に顔を出している人間なんだよ、それくらいされても当たり前、へこむなよ」というくらいの感覚、反応しかでてこないだろう。

 しかし、オランダは、ついこの頃まで芸能人や政治家、ましてや王室メンバーでさえもが、一般道路を普通に歩ける社会だった。私がすむハーグ市は、政府所在地であり王宮もあるので、本屋にいっていたら、どこかの政党の党首と出くわしたとか、スーパーマーケットの入り口で、自転車で乗り付ける政治家にあった、などということが、ごく普通にある。レストランに行けば、たまたまポップシンガーと隣り合わせ、でも、客は取り立てて大騒ぎもせず普通にしている、そんな国なのだ。
 王室のメンバーだって、イギリスの王室のようにパパラッチに追いかけられて写真の盗み撮りでもされれば、皇太子がみずからクレームをつけて来て、それが受け入れられるような国だ。

 だから、オランダのジャーナリズムには、かなりの大衆紙であっても、下世話なことはやらない、というような良識があった。確かに、今回の「ビネンホフ」誌のやり方というのは、どうも、ある種の『境界線』を越えてしまった感がある。

 ちょうどこれに合わせるように、ジャーナリズムの言論の自由をめぐって先週二つの事件があった。
 リビア・トリポリでの飛行機墜落の唯一の生存者だったオランダ人の少年ルーベン君(9歳)の病院でのインタビュー(テレグラフ紙)と、現政権の最大政党「キリスト教民主連盟(CDA)」の首相バルケンエンデの片腕と言われ防衛省の国務次官だったジャック・デ・フリース氏が不倫の事実を暴かれ政界から引退を余儀なくされたことだ。
 
 飛行機事故で家族を一度に失った9歳の少年を、まだ、回復してもいないのに訪ねていってインタビューをしメディアにそれをさらしたことについては、少年の心理的な痛みを思い測る余裕とプライバシーの保護感覚の欠如が指摘されている。また、政治家の不倫という、極めて私的な事柄が、ジャーナリズムのエスカレーションによって、政治生命の終焉にまで至ることについての疑問も議論されている。後者に関していえば、かつて、フランスの大統領だったミッテランの不倫が話題になったことが思い出されるが、ヨーロッパ(大陸)の元西側社会には、もともと政治家や有名人の不倫などには口をさしはさまない、また、それが、公的な立場での機能に障害を生むのでは云々、というような議論にはあまり発展させたがらないものだった。私生活、特に男女関係をとやかく追及するのは「無粋」、とでも言いたげな感覚があった。

 先週のこの二つの事件は、確かに、オランダのジャーナリズムが変容し始めていることを感じさせる。それだけに、「ビネンホフ」誌にごみ箱を漁られたぺヒトルドは、あたかも、「もう我慢ならない」「こんなジャーナリズムが民主主義を壊すのだ」と言わんばかりの論争を、フォルクスクラントという全国誌に発表し、「この件で、私は、ビネンホフを発刊した編集者たちと議論をしたい」と挑戦状を突きつけた。

 民主66党という政党は、もともと、1966年という、価値意識激動の時代に、元新聞記者だったハンス・ファン・ミールロが呼び掛けて作った知識人政党だ。イデオロギー的には中道左派、マイノリティの権利保護、インクルージョンの意識が高く、民主主義の制度維持に高い関心を示して、さまざまの法案を提議してきた政党だ。同性愛者の婚姻合法化や安楽死合法化などには、この政党が大きな貢献をしてきた。同時に、結党の中心だったファン・ミールロが新聞記者であったことからも図りしれる通り、市民の権利としての「自由」を擁護する意識は極めて高く、とりわけ、言論の自由の監視者・実践者としてのジャーナリズムの自由については、その擁護者としての立場をはばからない政党だった。

 そんな政党の党首ぺヒトルドが、それでは、なぜ、こうして政治家の背景をかきたてるマスメディアを批判しているのか?

 それは、フォルクスクラント誌に掲載された彼の言い分、そのものを読んでみた方が手っ取り早い。

「人にいわれるまでもなく、私は、自分が公人としてガラス張りの家に住まなくてはならないということについては覚悟を決めている。また、現在の政治体制の中で、政治家という名の背後にいる人物そのものがますます重要な要因となってもきている。だから、人々がその人物そのものについて、もっと知りたいと思うのは仕方のないことだと思う。、、、、、、(中略)ジャーナリストたちは、私をコントロールするという役割を担っている。私が仕事の中あるいは外で何か大きな間違いを犯せば、警察や司法が私を捕まえるという役割を持っている。そして、ジャーナリストらの仕事は、その誤りを裸にしてさらし、あるいは批判することが役割だろう。また、政治家には、法律や施策を策定するほかに、期待されることがまだある。政治家は、人々に対して模範として行動する機能を負わされている。ジャーナリズムは、この点で、ユニークな役割を持っており、その役割とは、政治家らがすることを評価し、政治家たちの権威主義的な行動を打ち破り、彼らの責任意識と人間としての尊厳さとを試すことにある。そして、民主主義が生きたものであるならば、そのためにジャーナリストの言論の自由の境界線が、ぎりぎりのところまで追及されるのは当然のことだ。、、、」

しかし、、、とぺヒトルドは続ける。

 ジャーナリズムの言論の自由が、飛行機事故墜落で唯一の生存者だった少年へのインタビューや不倫スキャンダルで政界を追放された有望実力政治家などの事件について議論されていたごく数日前、「ビネンホフ」の編集者たちは、それらの議論の中で、自分たちがやっていることが、「やや行き過ぎ」であるという自覚はあったらしい、という。そして、それに対して、「判断を下すのは司法だ」という発言をしたというのだ。トリポリの病院でのルーベン君のインタビューについては、それを許した現地のオランダ大使館、ひいては外務省に責任がある、といったという。

 彼らは、「裁断するならすればよい、おれたちは、ぎりぎりまで言論の自由を追求するのだから」と言わんばかりの、あたかも「自由の擁護者」をふるまう勢いだ。

 こういう彼らにぺヒトルドはこういう。

「前政権期、メディアコード(マスメディアの規則)を制定するという案が出た時、私はそれに激しく反対した。私は、ジャーナリストたちの仕事を国が管理することを望まない。ジャーナリズムは自由と多様性の中で、そのコントロールの役割を実施できるものでなければならない。、、、、(中略)(ジャーナリストらが司法に判断をゆだねたり外務省を引き合いに出すことについて)彼らは実はこういうことを言っているのだ。『私たちを制限してください。なぜなら私たちは自分ではそれはやりませんから』と。彼ら自身自分たちが行き過ぎた行為をしていることを感じているのだ。しかし、それでもそうすると言っている。つまり、責任が、それによって他の人に転嫁されている。政治家を守るのは司法官たちで、病院のベットにいる犠牲者は外務省が守るものだと。しかし私は別の道を選びたい。私は、ジャーナリズムに対する政府の監視に抵抗する。私は、ジャーナリズムが行き過ぎであるかどうかを判断するのは司法官だ、とするようなメディア状況には抵抗したい。私がほしいのは、政府だとか司法権だとかがジャーナリズムの自由の境界線を規定するのではなく、ジャーナリズム自身が、自分で自分の境界を決めるような国だ、、、、、(中略)、、、私たちは、自分がゴミ箱に捨てたはずのものが、翌日の新聞に載るような、そんな社会を求めているのだろうか。私たちは、必要もないのにずかずかとプライバシーに立ち入ってくることに、寛容でなければならないのだろうか。私たちは、娯楽やセンセーションのために責任を投げ捨ててしまうような国に住みたいのだろうか。、、、、、、(中略)、、、民主主義においては、公で討論をすることこそが、やってよいこととやってはいけないこととの境界線を定めるものである」

 硬派のジャーナリズム、新聞の論説などでは、ぺヒトルドの議論はおおむね支持されているように見える。しかし、新聞もラジオも、昨日は、この話題が飛び交っていた。

 民主主義が行き着いた先、それは、宗教も、また、科学的な研究や調査の結果といえども、どれ一つとして、絶対的な「真理」はない、そういう社会である。オランダ社会はそれにかなり近い状態にある。
 では、だれにとっても「共通」の真理がない社会では、私たちは、どういう風に生きていかなくてはならないのか。お互いの選択の自由、生き方の自由、価値観の自由、つまりは、それぞれの善悪の判断のもとになる良心の自由を、お互いに認め合って生きる社会にならなければならない。だからこそ、娯楽とセンセーションに走るジャーナリストたちが、「おれたちは表現の自由を追求している」と言わんばかりの顔で、実は、瑣末なスキャンダルを追いかけることが、ひいては、人々の大衆(自分の頭では物を考えない群衆心理に従って動く人々)化と、一時期の政治家や責任転嫁をしやすい官僚らの支配を生む結果になるのだ、とぺヒトルドは警告している。

 だが、オランダほど民主主義を追求してきた国ですら、今、ジャーナリズムがこんな風に頽廃の中に追い込まれているのは、いったい何故なのか。

 情報の価値が、インターネットによってほとんど無料化してしまったからだ。
 新聞・雑誌・書籍などの出版によるマスメディアが、それに携わる人々の収益を生むために、良識を捨ててカネの亡者にならなければ、生業が成り立たなくなっているのではないのか。

 そして、スキャンダル写真し、ポルノまがいの漫画、物質文化の退廃を象徴するファッション誌などで巨富を得ることに何の疑問も抱かずにきた日本の出版界と、それによって、広告だらけの雑誌に、政治家や芸能人のプライバシーが書き立てられても、それが、自らの社会の民主主義の崩壊であるなどとは、露にも思えない読者たちがマジョリティを占めている日本という国では、たとえ、どこかの政治家が、ぺヒトルドがやったような議論を始めても、だれも振り向かず、ただひたすら牛馬のように、仕事場と家庭の間の往復を繰り返し続けるだけなのではないのか。いつの間にか、日本のジャーナリズムは、その質を取り返しがつかないまでに劣化させてしまっているのではないか、と思うことがしばしばある。

 変わり、気づかなくてはならないのは、一人ひとりの市民だ。



2010年5月6日木曜日

家庭を理由に政界を引く若手エリート政治家たち

 さる2月20日、アフガニスタンへの平和維持軍の派兵延長をめぐって、第4次バルケンエンデ政権が解散となった。もともと今年末までで撤退することが決まっていたアフガニスタン派兵だったが、アメリカ合衆国の外交圧力もあり、延長の可能性を匂わせていたキリスト教民主連盟(CDA)の首相バルケンエンデにたいして、当時副首相だった労働党(PvdA)のワウター・ボスは、派兵延長に断固として反対し、労働党は政権からの脱退を決めた。ついに、バルケンエンデ首相にとっては、なんと4回目の政権解散となった。

 というわけで、早速、6月9日に次期総選挙が予定され、それに向けて早速選挙戦開始となったのだが、、、。

 3月11日、現政権の最大政党CDAの次期リーダー候補といわれていたカミール・ユーリングス運輸大臣(36歳)が政界からの引退を発表、続いて12日には、なんと副首相で財務大臣のワウター・ボス(46歳)も引退を発表。二人とも、閣僚内の住職にある、しかも、どちらかというと若くて脂の乗り切った政治家たちであっただけに、この発言は国民をあっと驚かせることとなった。
 ユーリングスは今年37歳。若いがヨーロッパ議会議員の経験もある将来有望な政治家だった。
 他方、ボスは有名な石油会社ロイヤル・シェルに10年勤めた後、1998年から国会議員、2000年に37歳で財務省の国務次官という重職に就き、2002年以来労働党の党首として党を率いてきた。特に、2008年の金融危機以後、財務大臣としてマスメディアに登場しない日はない、というほど政治家中の政治家。経済政策運営の手腕については定評があった。突然の引退表明に、政界ばかりでなく、国民もあっと驚きの声を上げることとなったは当然だった。

 ユーリングスもボスも、引退の理由は、プライベートな生活にもっと時間を割きたいから、とのこと。
 特に、ボスの場合、ジャーナリストの奥さんとの間に、6歳を頭に3人の子どもがいる。父親として子どもたちの育児にもっと時間を割きたい、夫婦でバランスよく家事を分担したい、というのが理由だった。

 まあ政治家の世界、深く勘ぐれば政界から引きたくなるさまざまの事情は当然あったことだろう。一般に、国会議員、閣僚の給与は、日本などに比べるとずっと低いとも言われているし、それぞれ、党内でのいろいろな政治抗争が絡んでいないとも限らない。一般の国会議員に比べると、閣僚の仕事は比べ物にならないくらい多忙を極める、ともいわれる。

 それにしても、、、、おそらく、日本などからすると、閣僚ほどの地位にあり、しかも、30台、40台という脂の乗り切った仕事盛りの政治家が、別に、何か失敗をやらかしたとか、賄賂などの腐敗のうわさが立ったわけでもないのに、さっさと政界から身を引く、それも、家庭のために、などとは、想像もつかないことだろう。

 実にオランダらしい、と思う。

 女性たちからは、「ああ、ついに男性たちもかなり解放度が高くなってきたな」などとニンマリされている。確かに、夫婦間の家事や育児の分担は、オランダの夫婦関係の一つのスタンダードになってしまっている。いまどき夫は外で働いて給料を稼ぎ、妻は主婦業に徹するというような家庭はほとんどない。ましてや、政治家や閣僚になるほどの高学歴者の場合、夫も妻もお互いに専門職を持っているケースが多く、両方が、お互いに譲り合いながら、仕事と家庭生活のバランスをどう保っていくかは、夫婦関係の維持にかかわる問題になっている。

 ボスの場合、政界を引いたからと言って家庭にこもるつもりはもちろんないのだろう。家庭生活をほどほどに維持しながら、効率よくできる仕事に就きたい、ということなのかもしれない。いずれ、子どもたちが成長したら、また、政治家としてマス・メディアで話題になる人として復活する日も来るのかもしれない。

 パートタイム就業を正規就業化し、同一労働同一賃金の原則を徹底してきたオランダ。こうした制度が成り立ち、実践されてきた背景には、家事や育児という、賃金を払われることのない仕事に対する尊重、また、一人ひとりの生活の中での賃金獲得のための仕事と家庭生活、あるいは、社会参加活動といった多面的な活動のバランス、また、ひとりの人生における、生活の重点の移動(学習=資格獲得―勤務・キャリア形成―出産・育児―勤務への回帰―退職後の暮らし)といった観点からのいろいろな議論の積み重ねが行われてきた。そういう中で、すべての人が、それぞれに、自分らしい生活のバランス、自分らしい人生設計、デザインの仕方が、できる限り可能なように選択肢の多い制度が作られてきた。

 政治家や閣僚は公僕だ。しかし、公僕もまた、一人の私的人間、市民として、一度限りの人生を自分らしく生きる権利を持っている。そして、その権利をみずから体現してみせることは、自分の政治姿勢を公に示す一つのやり方でもある。

2010年1月15日金曜日

ヨーロッパの中のオランダ:最大多数の最大幸福に高い税は欠かせない?? (その3)

 さて、CPBの調査結果を全体として眺めてみると、報告書それ自身が結論付けているように、オランダの『文明度』は、スカンジナビアモデルと大陸モデルとの中間、場合によっては、最も高いスカンジナビアモデルを上回る好成績を示していた。

 初めの問題提議にある、『課税圧力は高い文明の実現に必要か』という問いに関して言えば、スカンジナビアの成績をみると、明らかに肯定的な答えを引き出さざるを得ない、ということになる。しかも、経済繁栄の面でも、スカンジナビア諸国はアングロサクソンモデルの国に大きく遅れておらず、ならば、課税が高くても、繁栄ありで、幸福度も高いではないか、ということが言える。

 興味深いのは、課税圧力の点では39%と、スカンジナビアモデル平均の46%に比べても、また、周辺の大陸モデル平均の42%に比べても低いオランダが、経済繁栄や幸福度の点で、スカンジナビアにも遜色ない結果を達成していることだ。

 その秘密は何なのだろう。

 これは、私の勘で、仮説にすぎないが、たぶん、オランダ人特有の節約観によるものではないか、と思う。平たく言えば、けちで有名なオランダ人は、無駄を出さない、とでも言えばいいのだろうか。

 たとえば、日本でもよく知られたワークシェアリング。こちらでは、パートタイム就業の正規化、といった方が分かりやすいが、これなどは、考えようによっては、無駄のない雇用形式だ、と言っていいのではないか。

 多くの労働を必要としない職に対して、フルタイムの職を用意する必要はない。資格や経験のある能力のある人材を、必要な時間だけパートタイムで雇い、正規のフルタイム雇用と同じ安定した保証をすることで、無駄な時間が生まれにくい就業形式が作り出される。
 他方、子育てなど、家庭にも時間を割きたいライフステージにある若い労働者たちは、育児や家事をする以外の余った時間をパートタイム就業でカネを稼ぎながら埋められる。ついでに、子どもたちは、両親共々フルタイムの両親にほったらかしにされる必要もなく、ほどほどに、親の関心と保護の中で成長できる。

 一挙両得どころか、三得も四得もありそうな、働き方であり生き方だ。
 経済効率の高さ、子どもたちの幸福度の高さなどには、こういう、節約的な制度を生んできたオランダの賢さが反映しているといえないか。

 女性たちの労働への進出度が低いことについては、オランダ国内でもしばしば議論されている。
 
 しかし、労働市場への進出、産業社会の中での活躍だけが、本当に女性の解放のあかしなのだろうか、と私は疑問に思う。
 高い能力は、労働でも有効だが、子育てにも欠かせない。市民運動といった余暇を利用した社会参加でも有効だ。女性に限らず、人々が、働いてカネを稼ぐという活動のほかに、家事や子育て、市民運動にバランスよくかかわることは、むしろ、新しい時代の生き方といってもいいくらいだ。

 技術革新の発展のおかげで、家庭にいながら行えるテレワークの可能性も増えてきた。人間がかかわらずとも、機械(ロボット)を使ってやれる生産技術も、日々向上している。少ない人的能力で、十分な生産が可能であるのなら、それに越したことはない。人間の作業がかかわらない生産様式は、今後飛躍的に増えていくだろう。そこで生み出される利潤を、大企業だけが享受するのはおかしい。
 休暇がたっぷりとれるオランダ人の生産効率が、スカンジナビアモデルの国はもとより、どの国に比べても、圧倒的に高いことは有名だ。休むことは、生活を保障するだけの金銭の受領を阻む理由であってはならない、と考えられる時代は、もうすぐ目の前まで来ている。うまくやれば、高齢化社会や少子化を無条件に危ぶむ必要はないのかもしれない。少なくとも、一国の少子化を考えるのではなく、世界全体の人口圧力を大きく解決する道を、国境を越えて考える時代だ。


 オランダ人の生き方は、人と人とのかかわり方が、世界に共通の課題をみんなで考えなくてはならない時代に、未来の人々の労働の仕方、ライフ・ワーク・バランス、ワーク以外の部分についての生についての意味付け、の仕方を考えさせてくれる。

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 同時に、ありすぎる余暇をよりよく使いきれないオランダ人も多いのかもしれない。労働という紐帯によって、組織で共に働くという考えから解放されすぎてしまい、行き過ぎた個人主義が利己主義になってしまっている例もオランダには多い。なおのこと、社会参加を促す制度作りが重要だ。NPO団体やボランティアは、公的資金を使って常勤職員を雇ってでも活性化していくべきではないのか。

 短所や問題点をも含め、オランダは、生産一本やりの産業社会型世界が、環境問題という地球規模の障壁の前でスローダウンさせられている中、考えさせてくれる選択肢や課題をたくさん提供してくれるように見えるのだが、、、。

ヨーロッパの中のオランダ:最大多数の最大幸福に高い税は欠かせない?? (その2)

前回からの続きだ。

経済的繁栄

 冒頭に、『課税圧力は、高い福祉に不可欠なのか』『福祉は、繁栄を犠牲にするものか』『相対的に高い福祉と相対的に高い経済的繁栄とは、持続的に両立できるか』という問題を提議したこの報告書。とりわけ、グロバリゼーションで、世界中が経済競争の中に突入し、しかも、金融危機でいたい打撃を受けた後とあっては、だれにとっても一番関心があるのは、この経済的繁栄の部分かもしれない。

 結論から言うと、繁栄度は、一人当たり国民総生産についてみる限り、アングロサクソンモデルの国が最も高いが、スカンジナビア諸国もほぼそれに変わらないレベルにあり、オランダは、比較的低い大陸モデルや地中海モデルの国よりもずっと高いレベルを達成していた。
 つまり、税金の圧力が高いスカンジナビアモデルの国々は、税金圧力が低く、したがって、公共政策や幸福度などの福祉面にに明らかな遅れがみられるアングロサクソンモデルの国に比べて、決して、経済繁栄の面で劣っていない、ということだ。

 オランダに限って言えば、就業参加率(就業人口に対する就業者の率)がどのモデルよりも高い76.1%を達成していたこと、中でも、この就業者の中に占めるパートタイム就業者の率が、ずば抜けて高かったことが注目される。
 とはいえ、パートタイム就業を正規雇用化しているオランダについて、この点は、広く知られてきた事実でもある。
 失業率に至っては、これまた、オランダは、全体として最も低いグループであるスカンジナビアの4.6%(平均)に比べても、2.8%と最も低い。この値は、2008年の金融危機以前のものではあるが、それから1年後の2009年代4四半期の失業率は、前にも報告した通り3.6%(OECD基準)で、世界のどの国に比べても低かった。
 さらに、労働生産性に至っては、オランダは実に顕著な結果を示している。時間当たりの国民総生産は、スカンジナビアモデル35.0、大陸モデル35.2、地中海モデル24.5、アングロサクソンモデル35.4であるのに対し、オランダは、38.0と抜きんでている。これを年収に換算するならば、オランダ人の場合、スカンジナビア諸国の人々と比べ、年間、200時間短い時間で同じ給与を受けているという計算になるという。(アメリカよりも400時間短い)

 気になるのは、女性の就業形態だ。パートタイム就業が高率を占めるオランダでは、スカンジナビアモデルや周辺の大陸モデルの国に比べて、女性がフルタイムで働く率は低く、いわゆる『女性解放度』日本でいわれる「男女平等参画」の度合いは低い。また、管理職に占める女性の割合も、相対的に低い。
 これは、女性が、今でも、家庭の中で主導的な役割を占めていること、就学前の子育てにおいて、保育所などの施設に依存する割合が低く、そこに支出されている公共資金が低いことなどとも呼応する。
 果たして、その傾向が、良いことなのか、悪いことなのか、の判断については、次項であらためて考察してみたい。

社会的結合度

 さてそれでは、各国の社会的結合の度合いはどうか。社会的結合度は、人々の生活の豊かさの基準でもある。結合が高いということは、人々に社会に対する関心と参加意識が高く、したがって、満足度や社会の成り行きに対して影響を与えられるという気分が高い、といえるだろう。結合度の高い社会は、より多くの市民を関与させた政策決定ができるという意味で、政策に持続性や耐性が生まれ、安定度が高まる。

 社会の他の成員に対する信頼という点で、スカンジナビアモデルの平均は67.0と、大陸モデルの27.8、地中海モデルの24.6、アングロサクソンモデルの30.5に比べて非常に高かった。オランダは、45.0とスカンジナビアにははるかに及ばないものの、他の地域に比べれば好成績だ。
 同法に対する協力活動としてのフィランソロピーへの参加は、アングロサクソンモデルが最も高い(寄付72.6%、ボランティア31.9%)が、オランダは、さらにそれを上回り、世界一だ(寄付74.9%、ボランティア37.1%。

 ウェルビーング、良好な状態、とでも訳すこの言葉は、砕いていえば、幸福度・満足度と訳せると思う。欧米諸国が、物質主義社会から、非物質主義社会への移行を果たした70年代以降、ずっと行われてきている調査がある。物質主義の時代は、人々は、『生存』が生と労働の目的だった。しかし、一定程度の物質に満たされ、経済的な安定が確保された後、人々は、『より良いあり方、生き方』を求め、心の豊かさを求める価値観を持つようになった。ポスト・マテリアリズムとはこのことを言っている。ポスト・モダニズム(脱近代主義)とは異なり、もっと狭いものだ。
 オランダは、ウェルビーングの点でも、スカンジナビア諸国とともに相対的に高いレベルのグループにいつも入れられてきた。ウェルビーングの判断は、主観的なものが多く、プロテスタンティズムとの関連も指摘されている。
 さて、CPBの調査では、経済的安定性、労働に対する満足度、生活に対する満足度、幸福感、自由感のいずれにおいても、オランダは、最も高いスカンジナビア諸国に続く位置を占めた。大陸モデル、地中海モデル、アングロサクソンモデルに対しては、全体として水をあけている。(自由感についてのみ、自由市場原理のアングロサクソンモデルがオランダよりも高い位置を占めている)

 そのほか、不正(汚職)の少なさ、犯罪への不安、自殺率、などでもオランダは好成績だ。
 なぜか、10万人当たりの殺人率がスカンジナビアは大きく、拘留者の比率がオランダは高い。

 文明生活の先進性を測る一つの尺度として、国連開発計画(UNDP)が毎年公表しているHDI (Human Development Index)というものがある。経済指標のほか、教育の程度、健康生活の程度、などが考慮される。それによると、オランダは、世界で第6位、スカンジナビア諸国はノルウェーが1位であるほかは、皆オランダよりランクが低い。アングロサクソンモデルの中では、アイルランドが5位と健闘し、オランダのレベルを上回っているが、その他の国は皆、オランダよりも下位にある。


(この項続く)  
 

2009年12月24日木曜日

ヨーロッパの中のオランダ:最大多数の最大幸福に高い税は欠かせない?? (その1)

 高い税金は高い文明を実現するために必要なもの、そして、それを実現しているのはスカンジナビアの国々と、オランダ、そういう興味深い結果を示すレポートが今月、オランダのシンクタンク『経済政策分析局〈CPB〉』から出されている。(Hoe beschaafd is Nederland? Een fiscale kosten-batenanalyse, Sijbren Cnossen, CPB2009)

 この調査研究のきっかけは、次のような問いにある。

  • 高い税金圧力は、文明を押し上げるために必要なものなのか、つまり、ベンサムに代表される功利主義者の言うところの、<最大多数の最大幸福>にとって必要なものなのか?
  • 高い税金圧力のある国の人々の幸福は、低い税金圧力の国よりも大きいのか?
  • 人々の幸福のレベルは経済的な繁栄を犠牲にするのではないのか?
  • 比較的高い福祉のレベルと比較的高い繁栄のレベルとを組み合わせることは、どの程度持続性のあるものなのか?
 実に時代にかなった、しかも、おそらく今、多くの日本人にとっても興味の尽きない、わくわくする問いかけではある。

 この問いに答えを求めるために、この調査では、調査者の国であるオランダを中心に据えながら、ヨーロッパの国々を、4つの社会経済モデルに分類している。この分類もまた、ヨーロッパの国々を理解する枠組みとしてはなかなかに面白い。分類の基準は、

  1. ひとりで生活することができない人の面倒をみるのは誰か?
  2. 雇用慣行と企業の制度は?
  3. 市場での所得は税によってどれほど調整されているか? 

    4つのモデルとは以下のものだ。
  1. スカンジナヴィア・モデル(政府主導型モデル):スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、デンマーク
    平等の概念を強調し、集団的な決定様式とユニバーサルな社会的施設・設備に特徴づけられる。
  2. 大陸・モデル(コーポラティズムあるいはライン諸国モデル):ドイツ、フランス、オーストリア、ベルギー
    業種集団を基礎として、それぞれ独自が供給する施設・設備によって組織される。達成された生活水準の維持を目指す
  3. 地中海・モデル(家族志向型モデル):イタリア、スペイン、ギリシャ、ポルトガル
    いまだに、古い、農耕社会的、温情主義的な、庇護と隷属の文化の後をたどることができ、家族以外には、ほとんど明確な社会的なセーフティネットがない。
  4. アングロサクソン・モデル(市場モデル):イギリス、アイルランド
    市場依存、集団的な施設・設備には限界があり、主として、貧困撲滅に力を入れる

 この分類を見ただけでも、ああ、なるほど、とヨーロッパの地域的な特徴が顕著に見えてくる。

 4つのグループの税金圧力、すなわち、国民総所得に占める税金の割合は、スカンジナヴィアモデルの平均が46%、大陸モデルの平均が42%、地中海モデルの平均が37%、アングロサクソンモデルの平均が34%で、オランダは、39%だった。

 調査結果のサマリーとしてまとめられた点は、以下の通りだ。

不平等について
 まず、3年以上所得が貧困ラインを割る継続する頑迷な貧困は、オランダは全人口中わずかに1.3%で、4つのモデルで一番低かったスカンジナヴィアモデルの平均2.3%を大きく下回り最低。(最も高かったのはアングロサクソンモデルの6.8%)、65歳以上の高齢者の中に占める割合も1,3%で最低だった(スカンジナビアモデル7.2%、大陸モデル7.0%、地中海モデル11.7%、アングロサクソンモデル15.1%)。ただし、子どもの貧困の割合が9%とスカンジナビアの4%に比べるとやや高い。これは、主として、片親世帯で、しかも親が働いていないケースが多いことによる(地中海モデル14%、アングロサクソンモデル12%)。

 不平等への意識を測る指標は、国内だけではなく、国外の貧困に対する態度からも得られる。オランダは、昔から、開発援助協力への拠出額が高いことで知られる。国連が目標額として定めている、国民一人当たり国内総生産の0.7%を達成している数少ない国だ。常に、0.8%を超えている。この調査でも、開発コミット目っと院でクスで、オランダは、10点満点の6.7点と、最高点を示した。これに続く高い得点は、フィンランドを除く北欧3国(スウェーデン、ノルウェイ、デンマーク)にみられた。

 不平等を測るもう一つの指標は、女性の解放度だが、グローバル・ジェンダー・インデックスによると、オランダは、ジェンダー間の平等に関しては、11位で、スカンジナビアの国々に比べるとやや劣る。しかしながら、他の3つのモデルの平均に比べるといずれよりも解放度は高い。これは、オランダの場合、ワークシェアリングの浸透によって、労働市場にパートタイムとして就労している女性の数は比較的多いが、男性と肩を並べて、管理職等の指導的な地位に就く女性の割合が比較的少ないことに起因している。

健康管理と教育
 オランダの健康管理ケアはよく組織されており、しかもそれほど高額ではない。収入の約1割が健康管理のために支払われる。ヨーロッパ全体として、平均寿命に大きな差はないが、オランダでは、出生時における子供の死亡率がかなり高いことが目立つ。

 教育については、オランダは、スカンジナビアの国々次いで、高い成績を示している。特に、PISA学力調査では、ヨーロッパでは、フィンランドに次いで、高い水準を達成した。
 しかし、就学前保育や子どもに対するケアに対する公的資金の支出は、スカンジナビアの国々に比べると劣っている。

(この項続く)

2009年12月23日水曜日

14才のセイラー:親権と子どもの自立

 今年の夏以来、オランダのニュースに時々登場しては社会に議論を醸し出しているラウラ・デッカー。両親の船の上で生まれ、生来のセイラー(ウー)マンとして育った14才のオランダ人少女だ。
 昨夏、13歳だったラウラは、単独で世界一周航海をすると決め、本人も熟練した航海経験のある父親は、彼女に同意して、学校に長期欠席の申し出を入れた。もちろん、就学義務の履行に厳しい学校はこの依頼を受け入れられなかった。いずれにせよ、ラウラの野望は、史上初の最年少世界一周航行を果たすことだ。訓練は十分、スポンサー初め、支援グループの準備も怠りなく、というところであったらしい。

 しかし、オランダの裁判所は、未成年のラウラが単独で公開することに対して、不許可の結論を出した。理由は、成長期にあるラウラにとって、精神的にも肉体的にも極限の状況に一人で立ち向かわなくてはならない可能性のある単独航海は、将来、取り返しのつかない危害をもたらす可能性がある、というものだ。その結果、ラウラの行動は、以後、ユトレヒトの青少年保護組織の管理下に置かれることになった。

 ラウラの単独航海に、宣伝効果を期待して申し出たスポンサーは少なくない。そんな中で出されたオランダの司法権の決定は、基本的に、未成年者に対する公的保護の立場からのものだった。宣伝収入をもくろんでいたスポンサーには落胆の結果であったことだろう。

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 子どもの教育(成長)の第1義的責任は親権者にある。しかし、その親権者が、子どもの健全な発育を保護しない、あるいはできない状況にある場合には、公的機関が子どもの発達の権利を守らなくてはならない。この原則が、ラウラをめぐる一連の議論に流れる考え方であった。そして、この原則自身には何の誤りもない。
 しかし、親の判断をどこまで認めるか、それに対して、公的機関が、いつ踏み込むべきか、その境界線を引くことは難しい。いずれの判断も、最終的には、現行の法に照らすしかないわけであるが、それでも、法の適用基準は、司法官や関係の専門家に任されることで、今回のような例では、議論が噴出しかねない。議論の行方によっては、将来、法が修正される可能性だってある。

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 スポンサーや野次馬の大きな期待をよそに、16歳までは、単独航海は認められないとの結論を受けたラウラと父親。これで事態は一件落着だったはずが、先週になって、今度は、ラウラが行方不明となり、父親が警察に届け出て、数日後、カリブ海のオランダ領シント・マーティンで見つかるというニュースが流れた。ラウラがどうやってその島まで来ていたのかについては、詳しいことは報道されていない。しかし、8月以来、青少年保護機関の監督下にあったはずのラウラが行方不明になったことで、ラウラの両親よりも、公的な機関の方が、いくらか慌てふためいている感じはある。ラウラの保護責任を持っていたはずが、保護できていなかったからだ。結局、担当機関であるユトレヒトの青少年保護ビューローは、来年の7月まで、ラウラを、現在同居している父親から引き離し、しかるべき保護機関のもとで監督する、という結論をだした。

 もちろん、この結果にはまたもや議論がおこり始めている。ラウラはもとより、父親も納得しない。昨日の新聞には、今回の結論にラウラは「打ちのめされている」と告げる手紙が、ラウラの祖父母から送られてきた、とも報道されている。

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 世の中には、中毒患者、犯罪人、児童虐待など、子どもの健全な成長を見守ることができない親が実際に存在する。そういう親に代わって、子どもの発育を保護するのは、国や社会の役割であることには間違いはない。だが、今回の場合、父親は、ラウラの航海技術を育て、見守り、そして、本人の野心を果たしてやろうと支援したまでだ。それが、子どもの成長の障害になるという判断をつけるのは難しい。
 確かに、子どもの就学を義務付けられているのは父親だ。世界航海のために、学校に長期欠席届けを出した父親には、この義務に対する不履行という問題がある。これとても、果たして、学校が子どもの成長に最善の場であるのか、と議論する親がいないわけではなく、ここでも、親権と社会の保護義務の間には軋みがある。



 オランダの教育や子育てを、外から眺めている私の目には、さらに、もう一つ、気になることがある。
 
 現在のオランダ社会の子育ては、とにかく、子どもたちを一日も早く『自立』させることにある。それは、親の意識としても、社会の制度としてもそうだ。ラウラの場合、その意味では、オランダ社会の子育ての、突出した典型例であったとも言えなくもない。本人も、親も、ともに、ラウラの自立に向けて今日まで来たのだろうし、それをとやかく言う人も、おそらくいなかったのではないか。それが、突然にして、『成長に対する身体的、精神的な危害』などと理由づけられ、これまで、知らん顔だった公的な組織が、自身ではもうすっかり精神的には自立を遂げたと思っているラウラに、『保護』を申し出てくる、というのもどんなものか。ラウラにも父親にも、何か、偽善的で取ってつけた温情に見えるのではないか。そもそも、自立などというものは、18歳という年齢がくれば、みんな同様に果たされるというものなのか、、

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 ラウラをめぐる一連の議論は、親権と、未成年者に対する社会(国家)の責任の関係、さらには、子どもの自立とそれを見守る社会の関係、など、日本においても議論されるべきいろいろなものを問いかけているように思う。

 (公立)学校という場が、いじめや校内暴力という、それこそ、子どもの発育にとって危害にあふれた場になってしまった日本。また、子どもに『自立』することよりも、ひたすら社会への同調を強い、子どもや親たちの繰り言、主張を抑え込んできた日本という社会。そんな日本に、『親権とは何か』『自立とは何か』という議論は、今まで、公に真剣に論じられたことがあっただろうか。

 日本だったら、ラウラの事件のような問題が起きたとしたら、いったい、どんな議論になっていたことだろう。ふと、イラクでの日本人人質事件とその後の議論が脳裏に浮かぶ。
 

2009年12月8日火曜日

金融危機後も低い失業率を保つオランダ

 今月5・6日(週末版)のNRCハンデルズブラッド紙の経済面では、昨年の金融危機以後のヨーロッパの労働市場をの実情を伝えるシリーズ記事の第一回目として、オランダの失業の実情が伝えられた。

 その冒頭にくっきりと描かれたグラフには、世界の先進国の失業率〈今年第3四半期分〉が比較されている。それによると、ベルギー7.9%、デンマーク6,2%、ドイツ7.6%、フランス9.8%、アイルランド12.6%、日本5.5%、ポーランド8.1%、ポルトガル9.9%、スペイン18.7%、イギリス7.7%、アメリカ合衆国9.6%、スウェーデン8.6%、そして、欧州連合平均は7.9%だ。オランダは3.6%で、世界の先進国のどこに比べても、目立って低い。(このグラフは、OECDの統計で、そのため、オランダの統計局CBSが独自の『失業』の定義によって出している5%に比べると低くなっている。) 
 2008年秋の世界同時金融危機発生直前の統計でも、オランダの失業率は、ヨーロッパでもっとも低かった。確か、当時、オランダと最低失業率を争っていたのはデンマークだったが、その後、オランダがほぼ同じレベルの失業率を保ってきたのに対し、デンマークでは倍増しているのが興味深い。

 オランダの失業を抑制している理由は、このシリーズで以前報告したように、パートタイム失業制度がいち早く取り入れられ、大変、功を奏したことがあげられる。また、労働機会の現象をいち早く見てとった若年者が、大学や職業訓練校に長くとどまっていること、また、高等教育機関への入学者が増加していることなど、就職活動を遅らせ、教育を選んだために、失業率が増大していない、という面もある。前者は、オランダ特有の政労使の話し合いによる政策上の効果であり、後者は、授業料が比較的安く、また、高校卒業資格を持つものすべてに開かれた教育機会という制度上の利点であるともいえよう。

 しかし、オランダの失業率の低さには、まだ、もっと根本的な理由があるというのが、この記事の趣旨でもあった。それは、オランダのパートタイム就業文化の浸透である。すなわち、他のほとんどの諸国では、パートタイムによる就業が、フルタイム就業の職種に比べて、いわばランク付けの低い、言い換えれば、専門的な職種には向けられていないのに対し、オランダでは、専門職であれ、パートタイムの就業で、しかも、フルタイムと同じ条件の正規就業として取り扱われることが、今や、当たり前になっているということだ。
 実際、医者でも、校長でも、研究者でも、オランダでは、専門職者が、週に4日しか働いていない、という例を探すのに、まったく苦労することはない。まさに、一つの仕事を2人で分けあう、つまり、フルタイムならば一人分の仕事にしかならないものを、時間で分け合うことによって2人に仕事の機会を与えることになる、という例が掃いて捨てるほとある。

 「いやあ、でも、それでは、パートタイムでしか働けない人は収入が足りないのでは?」と思われるかもしれない。しかし、そうでもなくて、とりわけ、小さい子どものいる夫婦などは、むしろ、自宅にいて育児にかかわれる時間を望んでいる場合が多く、夫婦でお互いにパートタイムで働けることは、家庭生活にかける時間を生み出す歓迎すべき条件なのだ。
 そのうえ、パートタイム就業者が、時間を増減することを解雇の条件にしてはならない、という規則もあるから、労働者が、もっと長い時間働きたいとか、少し短くしたいというような場合、雇用者は、できるだけ柔軟にそれに応じなくてはならない。
 だから、労働者には子どもが大きくなって時間が増えるなど、労働時間を延長したい場合には、そうする可能性が比較的容易に用意されている。

 もっとも、オランダの失業率の低さの背景には、オランダの経済は、金融危機で最も大きな打撃を受けたといわれる製造業への依存度が低く、フォワーディング業に代表されるサービス部門の産業比率が大きいことも理由としてあげられる。また、社会保障制度が、北欧並みに整っているといわれたオランダは、今でも、景気変動の影響を受けにくい、医療、介護、教育など、公共政策部門でのサービス職を多く労働機会として持っていることも理由に挙げられている。