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2010年5月18日火曜日

ゴミ箱あさりジャーナリズム

 「他人の家のゴミ箱をあさってマスメディアにさらけ出すような国に私はすむ気はない」
 最近出たばかりの「ビネンホフ」という雑誌の内容にかみついたのは民主66党の党首ぺヒトルドだ。

 「ビネンホフ」とは字義どおりには「内廷」という意味。しかし実際には国会議事堂と議員室のある周辺を指す語で、今回発刊されたこの雑誌は、もともと有名人のスキャンダルを描く一般週刊誌「ウィークエンド」と、ややリベラルな知識人向けとはいえ、政治家や有名人の裏話にも立ち入る感が皆無とはいえないオピニオン誌HP/デ・テイト誌の両紙を出している出版社が、両誌の編集長の共同で発刊したものだ。来る6月9日に予定されている第二院(衆議院)議員選挙に先立って、政治家らのプライバシーを少し暴き、政治家らの人物像を描くことが目的であったものらしい。

 しかし、その内容はかなりひどい。148ページにわたるグラビア入りの雑誌には、多くの現職政治家や元政治家たちの私生活が取り上げられており、どんな家に住んでいるのか?住宅ローンは?アルコール使用料は?食生活の傾向や喫煙行動は?夫婦関係や不倫の経歴は?どんな申告をしているのか?などなど、しかも子どもたちの写真まで隠し撮りして掲載しているという。

 「ゴミ箱あさり」とかみついたぺヒトルド自身も、回収のために自宅前に出していたゴミ箱が取り去られ、そのゴミの内容がこまごまとこの雑誌に掲載されたという。

 日本やイギリスやアメリカのように、すでに長くグラビア・スキャンダル誌やスポーツ紙、一般週刊誌で、政治家や芸能人・知識人の私生活を暴き立てることに読者が慣れ切っている国では、今回の「ビネンホフ」という雑誌の中身など、驚くに当たらないかもしれない。「公に顔を出している人間なんだよ、それくらいされても当たり前、へこむなよ」というくらいの感覚、反応しかでてこないだろう。

 しかし、オランダは、ついこの頃まで芸能人や政治家、ましてや王室メンバーでさえもが、一般道路を普通に歩ける社会だった。私がすむハーグ市は、政府所在地であり王宮もあるので、本屋にいっていたら、どこかの政党の党首と出くわしたとか、スーパーマーケットの入り口で、自転車で乗り付ける政治家にあった、などということが、ごく普通にある。レストランに行けば、たまたまポップシンガーと隣り合わせ、でも、客は取り立てて大騒ぎもせず普通にしている、そんな国なのだ。
 王室のメンバーだって、イギリスの王室のようにパパラッチに追いかけられて写真の盗み撮りでもされれば、皇太子がみずからクレームをつけて来て、それが受け入れられるような国だ。

 だから、オランダのジャーナリズムには、かなりの大衆紙であっても、下世話なことはやらない、というような良識があった。確かに、今回の「ビネンホフ」誌のやり方というのは、どうも、ある種の『境界線』を越えてしまった感がある。

 ちょうどこれに合わせるように、ジャーナリズムの言論の自由をめぐって先週二つの事件があった。
 リビア・トリポリでの飛行機墜落の唯一の生存者だったオランダ人の少年ルーベン君(9歳)の病院でのインタビュー(テレグラフ紙)と、現政権の最大政党「キリスト教民主連盟(CDA)」の首相バルケンエンデの片腕と言われ防衛省の国務次官だったジャック・デ・フリース氏が不倫の事実を暴かれ政界から引退を余儀なくされたことだ。
 
 飛行機事故で家族を一度に失った9歳の少年を、まだ、回復してもいないのに訪ねていってインタビューをしメディアにそれをさらしたことについては、少年の心理的な痛みを思い測る余裕とプライバシーの保護感覚の欠如が指摘されている。また、政治家の不倫という、極めて私的な事柄が、ジャーナリズムのエスカレーションによって、政治生命の終焉にまで至ることについての疑問も議論されている。後者に関していえば、かつて、フランスの大統領だったミッテランの不倫が話題になったことが思い出されるが、ヨーロッパ(大陸)の元西側社会には、もともと政治家や有名人の不倫などには口をさしはさまない、また、それが、公的な立場での機能に障害を生むのでは云々、というような議論にはあまり発展させたがらないものだった。私生活、特に男女関係をとやかく追及するのは「無粋」、とでも言いたげな感覚があった。

 先週のこの二つの事件は、確かに、オランダのジャーナリズムが変容し始めていることを感じさせる。それだけに、「ビネンホフ」誌にごみ箱を漁られたぺヒトルドは、あたかも、「もう我慢ならない」「こんなジャーナリズムが民主主義を壊すのだ」と言わんばかりの論争を、フォルクスクラントという全国誌に発表し、「この件で、私は、ビネンホフを発刊した編集者たちと議論をしたい」と挑戦状を突きつけた。

 民主66党という政党は、もともと、1966年という、価値意識激動の時代に、元新聞記者だったハンス・ファン・ミールロが呼び掛けて作った知識人政党だ。イデオロギー的には中道左派、マイノリティの権利保護、インクルージョンの意識が高く、民主主義の制度維持に高い関心を示して、さまざまの法案を提議してきた政党だ。同性愛者の婚姻合法化や安楽死合法化などには、この政党が大きな貢献をしてきた。同時に、結党の中心だったファン・ミールロが新聞記者であったことからも図りしれる通り、市民の権利としての「自由」を擁護する意識は極めて高く、とりわけ、言論の自由の監視者・実践者としてのジャーナリズムの自由については、その擁護者としての立場をはばからない政党だった。

 そんな政党の党首ぺヒトルドが、それでは、なぜ、こうして政治家の背景をかきたてるマスメディアを批判しているのか?

 それは、フォルクスクラント誌に掲載された彼の言い分、そのものを読んでみた方が手っ取り早い。

「人にいわれるまでもなく、私は、自分が公人としてガラス張りの家に住まなくてはならないということについては覚悟を決めている。また、現在の政治体制の中で、政治家という名の背後にいる人物そのものがますます重要な要因となってもきている。だから、人々がその人物そのものについて、もっと知りたいと思うのは仕方のないことだと思う。、、、、、、(中略)ジャーナリストたちは、私をコントロールするという役割を担っている。私が仕事の中あるいは外で何か大きな間違いを犯せば、警察や司法が私を捕まえるという役割を持っている。そして、ジャーナリストらの仕事は、その誤りを裸にしてさらし、あるいは批判することが役割だろう。また、政治家には、法律や施策を策定するほかに、期待されることがまだある。政治家は、人々に対して模範として行動する機能を負わされている。ジャーナリズムは、この点で、ユニークな役割を持っており、その役割とは、政治家らがすることを評価し、政治家たちの権威主義的な行動を打ち破り、彼らの責任意識と人間としての尊厳さとを試すことにある。そして、民主主義が生きたものであるならば、そのためにジャーナリストの言論の自由の境界線が、ぎりぎりのところまで追及されるのは当然のことだ。、、、」

しかし、、、とぺヒトルドは続ける。

 ジャーナリズムの言論の自由が、飛行機事故墜落で唯一の生存者だった少年へのインタビューや不倫スキャンダルで政界を追放された有望実力政治家などの事件について議論されていたごく数日前、「ビネンホフ」の編集者たちは、それらの議論の中で、自分たちがやっていることが、「やや行き過ぎ」であるという自覚はあったらしい、という。そして、それに対して、「判断を下すのは司法だ」という発言をしたというのだ。トリポリの病院でのルーベン君のインタビューについては、それを許した現地のオランダ大使館、ひいては外務省に責任がある、といったという。

 彼らは、「裁断するならすればよい、おれたちは、ぎりぎりまで言論の自由を追求するのだから」と言わんばかりの、あたかも「自由の擁護者」をふるまう勢いだ。

 こういう彼らにぺヒトルドはこういう。

「前政権期、メディアコード(マスメディアの規則)を制定するという案が出た時、私はそれに激しく反対した。私は、ジャーナリストたちの仕事を国が管理することを望まない。ジャーナリズムは自由と多様性の中で、そのコントロールの役割を実施できるものでなければならない。、、、、(中略)(ジャーナリストらが司法に判断をゆだねたり外務省を引き合いに出すことについて)彼らは実はこういうことを言っているのだ。『私たちを制限してください。なぜなら私たちは自分ではそれはやりませんから』と。彼ら自身自分たちが行き過ぎた行為をしていることを感じているのだ。しかし、それでもそうすると言っている。つまり、責任が、それによって他の人に転嫁されている。政治家を守るのは司法官たちで、病院のベットにいる犠牲者は外務省が守るものだと。しかし私は別の道を選びたい。私は、ジャーナリズムに対する政府の監視に抵抗する。私は、ジャーナリズムが行き過ぎであるかどうかを判断するのは司法官だ、とするようなメディア状況には抵抗したい。私がほしいのは、政府だとか司法権だとかがジャーナリズムの自由の境界線を規定するのではなく、ジャーナリズム自身が、自分で自分の境界を決めるような国だ、、、、、(中略)、、、私たちは、自分がゴミ箱に捨てたはずのものが、翌日の新聞に載るような、そんな社会を求めているのだろうか。私たちは、必要もないのにずかずかとプライバシーに立ち入ってくることに、寛容でなければならないのだろうか。私たちは、娯楽やセンセーションのために責任を投げ捨ててしまうような国に住みたいのだろうか。、、、、、、(中略)、、、民主主義においては、公で討論をすることこそが、やってよいこととやってはいけないこととの境界線を定めるものである」

 硬派のジャーナリズム、新聞の論説などでは、ぺヒトルドの議論はおおむね支持されているように見える。しかし、新聞もラジオも、昨日は、この話題が飛び交っていた。

 民主主義が行き着いた先、それは、宗教も、また、科学的な研究や調査の結果といえども、どれ一つとして、絶対的な「真理」はない、そういう社会である。オランダ社会はそれにかなり近い状態にある。
 では、だれにとっても「共通」の真理がない社会では、私たちは、どういう風に生きていかなくてはならないのか。お互いの選択の自由、生き方の自由、価値観の自由、つまりは、それぞれの善悪の判断のもとになる良心の自由を、お互いに認め合って生きる社会にならなければならない。だからこそ、娯楽とセンセーションに走るジャーナリストたちが、「おれたちは表現の自由を追求している」と言わんばかりの顔で、実は、瑣末なスキャンダルを追いかけることが、ひいては、人々の大衆(自分の頭では物を考えない群衆心理に従って動く人々)化と、一時期の政治家や責任転嫁をしやすい官僚らの支配を生む結果になるのだ、とぺヒトルドは警告している。

 だが、オランダほど民主主義を追求してきた国ですら、今、ジャーナリズムがこんな風に頽廃の中に追い込まれているのは、いったい何故なのか。

 情報の価値が、インターネットによってほとんど無料化してしまったからだ。
 新聞・雑誌・書籍などの出版によるマスメディアが、それに携わる人々の収益を生むために、良識を捨ててカネの亡者にならなければ、生業が成り立たなくなっているのではないのか。

 そして、スキャンダル写真し、ポルノまがいの漫画、物質文化の退廃を象徴するファッション誌などで巨富を得ることに何の疑問も抱かずにきた日本の出版界と、それによって、広告だらけの雑誌に、政治家や芸能人のプライバシーが書き立てられても、それが、自らの社会の民主主義の崩壊であるなどとは、露にも思えない読者たちがマジョリティを占めている日本という国では、たとえ、どこかの政治家が、ぺヒトルドがやったような議論を始めても、だれも振り向かず、ただひたすら牛馬のように、仕事場と家庭の間の往復を繰り返し続けるだけなのではないのか。いつの間にか、日本のジャーナリズムは、その質を取り返しがつかないまでに劣化させてしまっているのではないか、と思うことがしばしばある。

 変わり、気づかなくてはならないのは、一人ひとりの市民だ。



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