「教育先進国リポートDVD オランダ入門編」発売

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2008年12月14日日曜日

新聞業界に国からの補助

 紙に活字印刷のメディア業界は世界中どこも生存競争に苦しんでいます。インターネットによる安価なデジタル・メディアが氾濫し、読者離れが急速に進んでいるからでしょう。ただ、熟練したジャーナリストによる公正な情報収集と伝達の技術は、アナログの財産ですし、優秀な人材なしで生まれるものではありません。受け取る情報には、そういう人たちの足と目と耳と頭脳と手による技が生きているはずです。 そこには時間も金もかかるというわけです。長年の経験は、特にそうです。また、そういう人材ができるだけたくさんいなければ、情報が偏ってしまう危険もあります。

 オランダでも、ここ数年新聞業界は購読者の減少に対して、あの手この手で対策を考えてきたようです。これまでの大型紙面の新聞だけではなく、若い人たちが手に取りやすい、タブロイド版のダイジェスト・ニュース誌を出したり、歴史や文化をテーマに、DVDシリーズ、リスニング講義シリーズ、を出版したりしています。当然、インターネット上でのデジタルニュースも作っていますが、こちらも、ほとんど収益がないらしく、どの会社も、当日のニュース以外は、購読者のみ専用のパスワードを使って過去の記事にアクセスできる仕組みにしています。

 そんなわけで、ここのところ、しばらく、新聞業界と第二院(衆議院)とから、メディア政策が十分でない、という批判を受けていたプラステルク教育文化科学大臣は、このほど、新聞業界に対して、公共放送の広告収入の一部を新聞業界の改革資金として提供することを決めました。

 オランダの国営放送の番組が、会員制のNPO放送団体によって作られることは、「オランダ通信」でも、また、最近の著書(「残業ゼロ授業料ゼロで豊かなオランダ」光文社)の中でも述べています。国は、STERという広告収入促進団体を別に設けており、国庫資金と合わせ、こうして集めた広告収入をいったんプールし、この資金をもとにして、各NPO放送団体には、会員数によって時間帯を配分して、公共メディアの使用を許可し、番組を作成させるという仕組みになっています。

 元来、STERの広告収入は、テレビ・ラジオのためのものですが、「メディア法」によると、収入のうち最大4%までは、公共放送以外の目的に支出してよいことになっているとか。
 今回プラステルク教育文化科学相が決めたのは、この4%枠をほぼ最大限に使って、つまり、年間、およそ2億ユーロのSTERの収入のうち、ちょうど4%に当たる800万ユーロを、新聞業界再編のために拠出することにしました。800万ユーロといえばおよそ9億6千万円。オランダの人口は日本の人口の約8分の1ですから、日本の感覚に直せば、ほぼ75億円ほどが、新聞業界再編のために提供される、というような感じでしょうか。

 具体的には、これまでほどんと収益がない状態だったインターネット上のデジタル・ジャーナリズムに対してこの基金が使われることになるだろう、との予想です。

 いずれにしても、日本の場合、健全なジャーナリズムを支えるための、何らかの公的な仕組みはあるのでしょうか?

 もちろんこの「健全」というのが曲者で、、、。

 たとえば、日本の場合、テレビならば「NHK]が健全、学校教育ならば「検定教科書の内容」が健全、という、あまり根拠のない「健全」がまかり通っています。

 しかし、本来、ジャーナリズムとは、国民の声を、それなりの比率で、つまり、多数派には多数派なりの、また、少数派には少数派なりの、広報の機会を与えるものであって初めて「健全」であるはずです。わかりやすくいえば、多数派・体制派・(今だけの)権力者だけがメガホンを持って大声を張り上げることができる状態を続けていくと、1.少数者の、ひょっとすると多くの人が気づかない優れた視点や貴重な考えが見過ごされる、2.多数派・体制派の考えを批判する声が抑えられると、本来もともともっと発展し洗練される可能性があった政策や考えもよりよく練磨される機会がなくなリ稚拙で耐性の小さい政策に終わる、3.ひいては普通ヨーロッパや世界を舞台にして行われる「議論」の文化からさらに一層遠のいてしまい、批判や議論を発展的生産的に受け止め、<みんなで社会をよくしていこう>という文化が育たない、4.そのために世界の議論についていけない状態が続きさらにどんどん悪化していく、5.結果、どうせ何を言っても自分なんか仲間に入れてもらえない、という投げやりの大衆ばかりになり、社会のために貢献しようという人々が著しく少なくなってしまうし、ちょっと論の立つ指導者が出てくると「丸投げ」状態で追随してしまう大衆行動になりがち、という結果が起こってしまうのです。

 どうも、今の日本の新聞業界は、そういう傾向が著しいように感じます。国際社会で対等に議論のできる一般市民が少なかったり、ちょっと見た目にかっこよいスターやきれいな女性キャスターの人気が出たりするところに、こういう「健全な」ジャーナリズム不在の状況は如実に表れているという気がします。

 日本でも、新聞の記事構成民放の番組作りには、一般の読者・視聴者がほとんど気づかないところで、スポンサーの影響が大きく反映していると思います。 新聞社が、読者の活字離れで苦しんでいるのはわかるのですが、、、 こんなことを続けていると、自らの存在価値すら認められないようなことになるのでは、と他人事ながら心配です。

 それでもどうにかして、声なき声を伝え、力も金もない人々にメガホンを渡すにはどうすればいいのか。そこにこそ「公」の役割があるはずです。税金が、そういうことのためにどう使われているのか、、、

 日本でも、社会貢献意識の高いスポンサーが集まって、NPO放送団体に、会員数に応じて番組制作をやらせるような民放チャンネルを作ってみたらどうでしょう? カネは出すが口は出さない、という、、、。インパクトは強いだろうな、と思うし、「民主制」をしっかり主張できれば、スポンサーの評価も跳ね上がるのでは、などと思うのですが、、、

学力テストの罪

 オランダでは、小学校の最終学年(第8グループ=日本の小学6年生に相当)で、CITOtoets(シト・トゥーツ)という共通学力テストが実施されます。
 このほど、このCITOtoetsを巡って、興味深い動きがあります。

 元来、オランダでは、小学校を終えて中等一貫校に進む際に、子供たちは、およその進学コースを決めなくてはなりません。なぜなら、中等一貫校と言っても、3年目あたりから、大学進学コース(VWO)、高等専門学校進学コース(HAVO)、職業訓練コース(VMBO)とに枝分かれしていき、その直前の段階として、中等一貫校の最初の2年間は、あきらかに、VWO,HAVO,VMBOと分かっているか、あるいは、隣接するコースの両方にまたがるブリッジコースに入るか、少なくとも、およその進学コースが分かっていなくてはならないからです(このあたりについては、平凡社「オランダの教育」に詳しく説明していますので、興味のある方はそちらをご覧ください)。

 さて、そこで、小学校の最終学年(学年は9月から7月まで)になると、ほぼ3月ごろに、親は、子供の意思を汲みながら、小学校の先生と懇談して、自分が選択する中等学校のどのコースに入るかを決め、入学希望の届けを出すことになります。これは、かなり時間のかかるプロセスです。なぜなら、入学試験に基づいた点数制ではないからです。原則としては、あくまでも、小学校でのその子供の発達の経過を観察してきた小学校の教員が、最も適切なレベルを助言することができる、と考えられており、さらに、子どもの権利を代弁する親の意思がもっとも尊重されなくてはならないことになっているからです。

 当然、どこの国の親も人間、自分の子供は「すぐれている」と思いたいものですし、時には、過剰な期待もかけてしまうものです。そうなると、親の希望と小学校の先生の観察結果とがかみ合わないことなども出てきます。しかし、小学校の先生は、地域の中学校の生徒指導の先生と密に連絡をしています。ある学校が、連年無責任にそのコースにふさわしくない子供を無理にして入学させたりすると、専門家としての質を疑われるということになります。そういうことがもし起これば、中学校の生徒指導の先生が、おそらく、小学校の校長先生におとがめ・苦情の達しを送ってくることでしょう。ですから、結局のところ、小学校の最終学年の担任の先生は、自分自身の観察をもとに、親をどのように説得できるか、という力が求められることになりますし、普通は、どの学校でもベテランの先生をその役割のために配置しています。

 もっとも、親が頑として聞かない場合には、中学校もとりあえず親の希望をかなえてやります。そのうち、子ども自身が、中学校のテストで欠点ばかり取るようになれば、「落第」あるいは、下のレベルに移動、という形が考えられるからです。こういうことが起これば、本来は、子どもにとって最善とは言えません。親が無理にレベルの高い所に入れたばかりに、子供には負担となり、かえって劣等感を抱く人間になったり、非行に走ったりしてしまうかもしれません。 不登校の可能性も起きてくるでしょう。

 そんなことも一切含めて、小学校の先生は、一人ひとりの子どもにとって最適なレベルを見極めて親に対してアドバイスをし、「無理をして上のコースに入れても、OO君には不幸な結果になるのではないですか」てなことを言って親を説得する役割を受け持つのです。あくまで、子どもにとって最もふさわしい選択をさせるためです。(日本では、医師や会社の重役など社会的に地位が高かったり学歴が高い父親の態度や教育ママの態度が子供の精神的な負担になってのしかかり、それがもとで子供が親を殺すケースまで出てきていますが、そういうことがオランダで起きないのは、小学校の先生との懇談で、そういう部分にまで踏み込んで、先生が「子どもの立場を考慮して」アドバイスしてくれるのが一般的だからです)

 さて、前置きが長くなりましたが、そういう原則があるとは言いながら、この10年ほどの間、CITOtoetsの点数が、必要以上に重視される傾向が強まってきていました。大きな流れとしては、やはり、この同じ時期、グロバリゼーションと新自由主義の強まりという潮流の中で、知識偏重傾向がオランダといえども強まっていたということが一つの理由です。元来、CITOtoetsは、義務ではないのでやらなくてもいいのですが、その半面、子供の発達を客観的に示さなくてはならない、という原則があり、学校側としては、つい簡単にできてしまうCITOtoetsに走る傾向があったのです。

 私が想像するに、新米の先生とか、あまり、親とのコミュニケーション能力がない先生にとっては、CITOtoetsを受けさせて、きれいに印刷されたグラフか何かで、「あなたの位置は全国的に見てどの程度」なんて結果が出ると、中学進学のコース決定を説得するのにはずいぶん楽だったのだろうな、と思います。

 そこで、これまでは、およそ、2月の初めごろにCITOtoetsが実施され、その結果を待って、教員と親の懇談会が行われ、それに基づいて、3月に中学校への入学登録をする、というのが、一般的な手順でした。

 その結果どうなったかというと、学力重視傾向が近年若干ぶり戻してきた中で、特に都市部の中学校で、コースごとにCITOの最低点を入学の条件として出すところが出始めてきたのです。

 こうなると一番不幸なのは子供たちです。たった一回限りのテストでちょっとでも点数が悪いと、希望の学校や進学コースにに行けないかもしれないのです。
 とくに、言語能力に遅れのある子供たちには不当なハンディキャップとなります。認知的な能力がすぐれていても、たまたま言語能力が遅れているために、テストで力を発揮できないということがあるのです。言語の方は、2,3年もすれば追いついてくる。でも、その時には、もう決まったコースに入っていて取り返すのは大変、というようなケースがあるからです。
 また、オランダ人の子供であっても、体調が悪かったとか、家庭の事情で精神的に不安定であったとか、様々の理由で、学力試験で力を発揮できないこともあります。

 そういうわけで、このCITOtoetsに関しては、親からも、また、小学校の先生からも、あまり好意的には受け止められていませんでした。

 さらに、もう一つついでにいえば、CITOtoetsが2月に終わって3月に中学進学コースを決めてしまうと、もう、子どもたちに学習意欲がなくなってしまい、小学校の先生の方も、力が抜けてしまう傾向もありました。結局、最後の3か月ほどは、キャンプだとか、フランス語初歩コースだとか、ダンス教室だとか、どうでもよい行事ばかりが続く、、、

 まあ、そういうようなCITOtoetsをめぐるさまざまの事情を背景に、先週、「初等教育諮問委員会」という組織(代表は2年前まで教育監督局の局長だったコルヴェゼー女史)が、初等教育行政の代表責任者であるシャロン・デイクスマ教育文化科学省国務次官に対して、CITOtoetsの実施時期を、現行の2月から6月に遅らせるべきである、という諮問を出すことを明らかにしました。

 そして、デイクスマ国務次官は、これに対して、すぐに、この諮問を支持する方向で検討したい、という意思をプライムタイムのニュースの中で明らかにしています。諮問支持の理由は、そうすることによって、子供たちの進学コース決定にCITOtoetsという学力テストの結果が著しく大きな影響を与えることが無くなり、子供のストレスを軽減できること、また、この学力テストを学年末まで遅らせることによって、読みや算数の勉強を最後までしっかり続け、これまでのように、CITO toets以後の意欲の低下を防止できるから、というものです。

 この動きに対しては、早速、「全国保護者会」が、歓迎の意思表示をしました。「全国保護者会」の立場は、あくまでも、CITOtoets全面廃止です。保護者たちは、最終学年に1度だけ、テストの瞬間だけの学力を測って、子供たちの一生を決める進学コースの決定のための材料にすることに、反対しているのです。

 実際、現行の法律では、初等教育の期間、学校は、子供一人ひとりの発達経過を定期的に、客観的で信頼性のある方法によってモニターしなければならないと義務付けられています。実際、多くの学校は、CITOtoetsをつくっているCITOという組織が別に作っている「習熟度モニターテスト」を導入しており、それをもとに、子供たち一人一人の発達をモニターし記録しています。当然、そのほかに、子供たちの心理テスト、行動問題、学習障害などについての先生の観察や指導の経過や効果、学内・学外機関による専門的なサポートなどなどについても記録されます(当然これらの記録は、プライバシー保護のため、その子供の親にしか公表されません)。

 これだけの記録を取り、毎日子供の指導に当たっている先生が、その子供にとって最もふさわしい進路を知っているはずだ、という信頼、あるいは、期待があるのです。少なくとも、親たちも、一度限りのテストの点数ではなく、そういう長期的に発達を観察してきた教員のアドバイスのほうを尊重するということです。


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 学力テストを巡る専門家のアドバイス、担当行政官の対応、また、保護者の反応を見ていると、この国では、本当に、大人たちみんなが一緒になって「子どものためには何が最善か」という柱に沿って議論がなされていることがわかります。

 なぜ、それを安心してできるのでしょう?
 なぜ、「国のため」「社会のため」「経済発展のため」と言わず、「子どものため」と言っていられるのでしょう。

 それは、「子どものため」に、つまり、将来この国の社会を支えていく「小さな市民たち」にとって最善の道を選んでおくことが、やがて、その子供たちがこの社会を担っていく時に、最も安定した、最も希望のある社会を作る基礎になるという信頼を大人たちが皆持っているからです。

 結局のところ、(競争に、学力テストに)勝ったからエリートになり指導者になって、負けたから、「仕方なく」職業教育に行く、落ちこぼれても誰も気にも留めてくれない、という新世代を作っていると、しっぺ返しは、いずれそうやって作った社会そのものに戻ってくるのです。(そのいい例が今の日本です。若い人たちがみんな社会に背を向けている、、、不登校・自殺・殺人、そして、少しできる子供たちすら、政治には関心なく、運さえよければ海外に出ていってやるぞ、と思っている。こんな国では子供など育てられないと女性たちは子供を産むことさえやめてしまっています。)

 たった一度の試験の日、親が離婚騒動で落ち着いて勉強もできなかった子はどうでしょうか? たった一度の試験の日が、オランダに来てまだ1年にも経たない移民の子にはどんなに大きな苦痛でしょう? これらの子供たちは、もしも、この日のテストで一生を左右する進路を決められていたら、後でいったい誰にその不満を投げつければよいでしょうか? 不満を解消して、その国の社会に貢献しようという気持ちになるまでに、どれだけの回り道や努力やエネルギーが必要でしょうか?そういう回り道を踏む間に、いったいどんな性格が形成されるでしょう。

 未来の世代を築くには、この、大人たちによる、愛情のこもった、しかし、どの子に対しても公平で、人間的なガイダンスが必要なのです。 (自分の子さえよければよい、他人の子どもなど蹴落とせ、などという調子で子供を育てていれば、いずれ、その子供は、同世代の誰とも社会関係を結べずに、さびしい孤独の人生を送らなくてはならなくなるのです。)

 日本という国には、いまだに、先進国の中では例外的な「入試」があります。これほど非人間的で不公平で、機械で製品を振り分けるような無味乾燥な制度はありません。そして、これがあるために、子どもと子どもの間に、不必要な競争が生まれ、子供ばかりでなく、親たちの間にも協力的になれない雰囲気が生まれ、さらには、学校ごとの学力競争のために、教員たちは疲弊してしまっています。疲弊した教員には教育の専門家としての誇りを持つ余裕はなく、不安な親たちもそういう教員たちを信頼することができなくなっています。目の前に、まだ、若芽のように柔らかく温かい素直な心の子供たちが成長しているというのに、大人たちの方が温かい友好的な関係を築いて子どもの成長を見守ってやることができずにいます。

 一体、日本は、これからまだ何年、こんな非生産的で不幸な未来作りを続けていくのでしょうか。

 

2008年12月9日火曜日

医学部の質の維持

 前の記事で、オランダの大学が直面している、質の維持という課題について少し触れました。
 今回は、その一つの例として、医学部の例を挙げてみます。

 一方では学部の特徴を出さなくてはならない、他方では、スタンダードの質を維持しなければならない、という要請の中で、オランダの大学は、医学教育をどう進めているのでしょうか。

 オランダには、フロニンゲン、ネイメーヘン、マーストリヒト、ユトレヒト、アムステルダム、アムステルダム自由大、ライデン、ロッテルダムの大学に医学部があります。そして、それぞれ、教育プログラムにはかなり大きな差異がみられます。マーストリヒト大学は、1年生の時から、小グループでの事例ディスカッションと事例研究をもとにした「問題解決型学習」を看板にしています。ライデンは、その正反対で、はじめの4年間は、みっちり基礎理論を詰め込むやり方です。ユトレヒトでは、ちょうどその中間ですが、病院実習は1年生からすでに始まります。アムステルダムやロッテルダムでも、ライデンに比べると病院実習が早く始まるようです。大きくいえば、理論>実践、なのか、実践>理論なのか、という点で、教育者たちの考え方・立場の違いがあるようです。

 これだけ教育プログラムの異なる医学部ですが、全国の医師養成としての質を一定水準に保つために、どの大学も共通に学生たちに「進度テスト」を実施しています。

「進度テスト」は、1年生から6年生まで、すなわち、国家試験を受ける前の医学部の学生全員を対象にして、共通のテストを半年ごとに受けさせるものです。半年ごとに、もちろん、質問は毎回異なるテストが作られますが、すべての分野を網羅してそれぞれの学生が到達した知識を確かめるためのものです。

 ですから、1年生で初めてこのテストを受けるときには、10%も理解できない、という状況になります。

 このテストを半年ごとに受けることで、学生は、自分の知識がどのように増えていっているかを確かめることができます。テストの結果は、前回までのテスト結果と合わせて通知されますから、進度がわかるのです。
 このテストを受け続けることで、国家試験までの準備をするときの、重点の置き方についての材料にもなるでしょう。

 他方、大学側は、データを集めることで、自分の大学の学生が、どのような分野でどのように進度を挙げているかを確かめることができます。他大学との比較も可能でしょう。
 つまり、このような共通の尺度を持っていることによって、自分の大学の独自の教育プログラムの利点と欠点を発見でき、修正しながら教育活動が行えるという仕組みです。

大学教育の自由と質の維持

 オランダの小中学校は、「教育の自由」のために、公私立すべて国から平等の教育補助金を受け、しかも、学校ごとに、独自の理念と方法で教育活動を展開している、ということは、これまでに、「通信」のエッセイでも、また、刊行された単行本の中でも繰り返し書いてきました。

 ところで、オランダでは大学でも当然ながらこの「教育の自由」があり、したがって、国内の大学は、それぞれ、独自の理念や方法に基づいて教育プランを立てています。まあ、それは、日本の大学でもこれまでそうだったし、法人化され自由化されたことによって、日本の大学は、さらに、独自の特徴を出していかなくてはならないくなってきていると思います。
 
 ただ、問題は「教育の自由」を認めた場合の質の維持をどうするかです。
 これは、小中高校の場合には、オランダでは、「教育監督法」に明確にあらわされた基準があり、それに基づいて「教育監督局」が文書と定期的な訪問によって評価をし、問題がある場合には、すぐに、地域の教育サポート機関から支援を受けることができる仕組みになっています。

 大学は、ただし、なかなか、そういうわけにはいきません。学問の自由が保障されていますし、教授たちの権限が大きいことは日本ともある程度似ているかもしれません。
 そこで、大学の質の維持に最も大きい影響を与えるのは、言うまでもないことですが、大学生自身による評価です。毎年ランキングが出されます。ランキングには、大学に勤務する研究者自身の評価に基づいたものもあります。また、論文数などによって研究内容のレベルを示すものもあります。しかし、非常に大きいのは、やはり、受益者である大学生自身の評価、行動ではないか、と思います。

 何しろ、入試のない国です。大学のほうが「えらそうな顔」をして、「入りたいならこの試験に通ってみろ」と学生を学力で選抜する仕組みは、オランダでは、日本ほどに強烈ではありません。
 進路に従ってしかるべき高校の卒業資格を取れば、学生は、全国の大学の中から、自分が好きな大学を選んで入れるのです。選ばれるのは学生ではなく、大学のほうです。

 また、オランダの大学は、日本よりもずっと早く自由化されており、学生数や、卒業資格取得者数によって国からの補助金の額が変わります。ですから、学生が選んでくれなくなり、学生数が減ってしまうと、とたんに学部や学科を閉鎖したり、教授らのスタッフの数を減らさなくてはならなくなります。そういう仕組みが、大学に、より良い質の教育を提供するように働きかけるのです。

 しかも、もっと大事なことは、ヨーロッパ域内で、すでに単位互換制度が始まっていることです。それだけでなく、学生たちは、自国の奨学金をそのままヨーロッパ域内の他国の大学に行っても受給できるのです。(ただし、その場合、学生の奨学金は母国から受給されますが、その学生が通う大学へ直接支払われる教育補助金は、その大学が払います。)

 ということは、学生たちは、自国の大学に飽き足らなかったら、他国でもヨーロッパ域内で認可された大学卒業資格をとれるということなのです。大学市場は国境を越えて開放されてきています。
 ですからなおのこと、大学は、よその国に自国の学生を取られてしまわないように、質の高い教育を提供しなくてはなりません。逆にいえば、より良い質の教育を提供している大学は、外国からの学生を受け入れて、そうすることで研究資金的にも豊かになれる、ということなのです。

 こうしたことは、学生にとって利点です。

 ただし、ここまで大学市場が解放されると、時流に合った人気の学部だけが残ってしまい、人気がなくても長い伝統をもつ学問、細々とでも研究者が研究をし続けることに長期的な意味で重要性のある学問がおろそかになる可能性は大いにあることは、言うまでもありません。

オランダの新聞の作り方

 マスメディアは中立でなければならないとよく言われます。当然のことと思います。
 けれども、記者は人間です。つい無意識のうちに、自分の何らかの立場を記事に反映させることがあるのはやむを得ないことと思います。また、記事の素材の取材の段階で、すでに、その記者の関心や興味、また、日ごろからのものの考え方が影響を与えることでしょう。
 ただ、新聞は、読者にとっては、自分で現場に行くことができない、確かめることのできない重要な出来事についてそれを通して読みとるための大切な媒体です。しかも、これが、一気に何百万という数で量産され、全国至るところに配達されていくのですから、それは大変怖いことでもあります。

 読み手のほうが、嘘や怪しい情報を見破る力も大変重要になってきます。オランダでは、そのために、戦時中の新聞記事などを子供たちに読ませ、人々をある思想へと「扇動」するような、いわばプロパガンダといわれる記事はどのように書かれるのか、信頼性のある記事とはどういうものかを、考えさせ、議論させています。

 ジャーナリストの良心として、それでは、どういう情報を発信すべきなのでしょうか。どういう新聞やテレビが、読者にとって役に立つメディアなのでしょうか。


 日本の新聞とオランダの新聞を比べてみます。
 日本の新聞は、時事報道は多いですが、意見・論説などは比較的少ないと思います。また一つの記事の長さも、オランダに比べると大変短いと感じます。

 オランダは、これまで「オランダ通信」でも何度も報告してきたように、いくつかのマイノリティ集団からなる国です。どの集団一つをとっても、多数派を構成することができない国です。大きくいえば、カトリック、プロテスタント、無信教の自由主義者、労働者、その他、ユダヤ教徒、イスラム教徒やヒンズー教徒などの小さな文化・宗教集団、などからなっています。おおむね、それぞれの集団は、独自の新聞・テレビ制作団体、雑誌などを持っていますが、各新聞紙上、テレビ番組の中でも、必ずしも、自分たちの集団の中だけの議論をしているわけではありません。それぞれ、自分たちのメディアのうえで、他の集団の人たちを招いて、対談や議論をして見せ、それをそのまま新聞に収録しテレビで報道しています。たくさんの意見を、読者や視聴者が、選択肢として受け止め、自分自身の立場がどのあたりにあるのかを自分で判断するためです。
 これも、マス・メディアの「中立」を守る一つのやり方ではないか、と思います。

 平日の新聞は、それほど厚くありませんが、土曜日の新聞となると、軽く、週刊誌の2,3冊分の量はありそうなほどの新聞が戸口に届きます。
 
 オランダの主要紙の一つNRCの紙面を見てみましょう。
 平日と同じように時事を集めたメインの紙面が日本の新聞と同じような大きさで14ぺーじ。これは、国内ニュース・国外ニュース・アート・スポーツからなります。これも毎日来ますが、経済面は別冊になっています。
 さて、週末版の付録は、3冊にまとめられたタブロイド版です。「意見と議論」「科学」「土曜日のエトセトラ」です。その内容を、11月22,23日の紙面と、12月6,7日の紙面から見てみます。

  • 「意見と議論」紙面
    11月22,23日の紙面には、次のようなタイトルが並んでいます。
    「セックスとたばこの道徳的な厄払い」:学校での性教育についてのフリージャーナリストの報告と意見(約1ページ)、大学の歴史学教授が書いた喫煙禁止についての考察(約1ページ)

    「オバマの勝利の後ヨーロッパはNATOを廃止すべきだ」というタイトルの記事(約2ページ)。これは、日本でもおなじみの、カレル・ファン・ウォルフレンともう一人のNRCの論説員による合同論説ですが、写真を除いても、タブロイド版に優に丸1ページはある記事です。

    読者の意見を求めた論説員による「提言」(ここでは、最近会った水利管理組織の選挙に関するものです)(約1ページ)

    読者の投稿欄(約1ページ:8投稿)

    ロッテルダムの大学医学部の医療技術評価研究所に所属する医療経済の教授へのインタビュー(約1ページ)と新聞社のコメント(約3分の1ページ)

    移民出身の教授による連載コラム(約半ページ)


  • 「科学」紙面
    12月6,7日の紙面から紹介します。
    まず、見開きのページで、その週の、学術・科学誌からの話題を読者が投稿して集めています。
    次に、以下のような話題が、ほぼ1-2ページの割合で、特集されています。
    「海の上での引力」(地学)「技術は飛び、法はへつらう」(技術・電子技術とプライバシーについての記事)「虹のたんぱく質」(生物学・細胞学でノーベル賞を受賞した研究の紹介)「都市の浮遊者の持っているもの」(考古学者によるアメリカのホームレスの所有物についての考察)



  • 「土曜日エトセトラ」紙面
    12月6,7日の紙面は次のように構成されています。
    「我々は危機を理解したくないのだ」(見開き2ページ)
     世界でもっとも重要な経済学者といわれているジェフリー・サックスへのインタビュー
    「誰にでも起こりうること」(3ページ、写真1ページ分を含む)
     HIVエイズビールス感染の問題
    「点数の低い医者たち」(2ページ、写真を含む)
     ロシアの低い医療レベルについての報告
    *(興味深い)人物紹介(1ページ、写真を含む)
    *その週に話題になった政治スキャンダルの背景(2ページ、写真を含む)
    *その週、「安全・治安問題」についての話題の講演をした講演者へのインタビュー(2ページ、写真を含む)
    *写真集「どこもかしこも障害物だらけ」(ヨルダンからの報告)(見開き2ページ)
    「私は世界のためにプレゼント作りをしている」(モード・ファッション記事)(インタビュー)(見開き2ページ)
    *飲食の記事として、キノコについての話題(1ページ)
    *旅行記事、「砂漠ブルース」(マリ・ニジェール・アルジェリアにまたがるサハラ地方の紹介)(見開き2ページ)
    *連載記事「オランダ日記」(知名人が、1週間の日記をつづる)(写真を含め1ページ)
    *メディア面:女性ジャーナリストによるマスメディアに関するエッセイ(写真を含め1ページ)
    このほか、短いコラム各種

 いかがでしょうか。土曜日となると、毎週毎週、平日の新聞に加えて、これだけの量の情報がタブロイド版に詰め込まれて送られてくるのです。

 日本の新聞に、これほどの量の徹底した専門記事、インタビュー、対談、エッセイなどは、掲載されているのは、見たことがありません。

 それでは、こういう読み物は、日本ではいったい誰がどんな風に担っているのだろうか、と考えてみると、すぐに浮かぶのは、書店に出てくる出版物です。特に、オランダの週末タブロイド版添付紙が取り扱う、時事に刺激された記事、一般読者への啓もうを誘う基本情報、などという性質の内容を考えると、たぶん、日本では、良質の週刊紙か新書が取り扱う題材ではないか、と思います。

 しかし、日本での書籍の出版数というのは、かなり話題になって売れたとしても10-30万がせいぜいではないでしょうか。大手新聞社の販売数800万ー1000万部にはとてもかないません。

 オランダでは、新聞に、これだけ堅苦しい話題をこんなにふんだんに入れていてもまだ売れる、あるいは、売れるためにわざわざ工夫して話題を選んでそうしてもいるのでしょう。

 民度の違い、教育の違いというのは明らかなような気がします。一般の市民が、ものを考え自分の立場を決めるために、読者に判断の材料を、さまざまの角度から提供しているのがオランダの新聞であるようです。