「教育先進国リポートDVD オランダ入門編」発売

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2008年12月14日日曜日

学力テストの罪

 オランダでは、小学校の最終学年(第8グループ=日本の小学6年生に相当)で、CITOtoets(シト・トゥーツ)という共通学力テストが実施されます。
 このほど、このCITOtoetsを巡って、興味深い動きがあります。

 元来、オランダでは、小学校を終えて中等一貫校に進む際に、子供たちは、およその進学コースを決めなくてはなりません。なぜなら、中等一貫校と言っても、3年目あたりから、大学進学コース(VWO)、高等専門学校進学コース(HAVO)、職業訓練コース(VMBO)とに枝分かれしていき、その直前の段階として、中等一貫校の最初の2年間は、あきらかに、VWO,HAVO,VMBOと分かっているか、あるいは、隣接するコースの両方にまたがるブリッジコースに入るか、少なくとも、およその進学コースが分かっていなくてはならないからです(このあたりについては、平凡社「オランダの教育」に詳しく説明していますので、興味のある方はそちらをご覧ください)。

 さて、そこで、小学校の最終学年(学年は9月から7月まで)になると、ほぼ3月ごろに、親は、子供の意思を汲みながら、小学校の先生と懇談して、自分が選択する中等学校のどのコースに入るかを決め、入学希望の届けを出すことになります。これは、かなり時間のかかるプロセスです。なぜなら、入学試験に基づいた点数制ではないからです。原則としては、あくまでも、小学校でのその子供の発達の経過を観察してきた小学校の教員が、最も適切なレベルを助言することができる、と考えられており、さらに、子どもの権利を代弁する親の意思がもっとも尊重されなくてはならないことになっているからです。

 当然、どこの国の親も人間、自分の子供は「すぐれている」と思いたいものですし、時には、過剰な期待もかけてしまうものです。そうなると、親の希望と小学校の先生の観察結果とがかみ合わないことなども出てきます。しかし、小学校の先生は、地域の中学校の生徒指導の先生と密に連絡をしています。ある学校が、連年無責任にそのコースにふさわしくない子供を無理にして入学させたりすると、専門家としての質を疑われるということになります。そういうことがもし起これば、中学校の生徒指導の先生が、おそらく、小学校の校長先生におとがめ・苦情の達しを送ってくることでしょう。ですから、結局のところ、小学校の最終学年の担任の先生は、自分自身の観察をもとに、親をどのように説得できるか、という力が求められることになりますし、普通は、どの学校でもベテランの先生をその役割のために配置しています。

 もっとも、親が頑として聞かない場合には、中学校もとりあえず親の希望をかなえてやります。そのうち、子ども自身が、中学校のテストで欠点ばかり取るようになれば、「落第」あるいは、下のレベルに移動、という形が考えられるからです。こういうことが起これば、本来は、子どもにとって最善とは言えません。親が無理にレベルの高い所に入れたばかりに、子供には負担となり、かえって劣等感を抱く人間になったり、非行に走ったりしてしまうかもしれません。 不登校の可能性も起きてくるでしょう。

 そんなことも一切含めて、小学校の先生は、一人ひとりの子どもにとって最適なレベルを見極めて親に対してアドバイスをし、「無理をして上のコースに入れても、OO君には不幸な結果になるのではないですか」てなことを言って親を説得する役割を受け持つのです。あくまで、子どもにとって最もふさわしい選択をさせるためです。(日本では、医師や会社の重役など社会的に地位が高かったり学歴が高い父親の態度や教育ママの態度が子供の精神的な負担になってのしかかり、それがもとで子供が親を殺すケースまで出てきていますが、そういうことがオランダで起きないのは、小学校の先生との懇談で、そういう部分にまで踏み込んで、先生が「子どもの立場を考慮して」アドバイスしてくれるのが一般的だからです)

 さて、前置きが長くなりましたが、そういう原則があるとは言いながら、この10年ほどの間、CITOtoetsの点数が、必要以上に重視される傾向が強まってきていました。大きな流れとしては、やはり、この同じ時期、グロバリゼーションと新自由主義の強まりという潮流の中で、知識偏重傾向がオランダといえども強まっていたということが一つの理由です。元来、CITOtoetsは、義務ではないのでやらなくてもいいのですが、その半面、子供の発達を客観的に示さなくてはならない、という原則があり、学校側としては、つい簡単にできてしまうCITOtoetsに走る傾向があったのです。

 私が想像するに、新米の先生とか、あまり、親とのコミュニケーション能力がない先生にとっては、CITOtoetsを受けさせて、きれいに印刷されたグラフか何かで、「あなたの位置は全国的に見てどの程度」なんて結果が出ると、中学進学のコース決定を説得するのにはずいぶん楽だったのだろうな、と思います。

 そこで、これまでは、およそ、2月の初めごろにCITOtoetsが実施され、その結果を待って、教員と親の懇談会が行われ、それに基づいて、3月に中学校への入学登録をする、というのが、一般的な手順でした。

 その結果どうなったかというと、学力重視傾向が近年若干ぶり戻してきた中で、特に都市部の中学校で、コースごとにCITOの最低点を入学の条件として出すところが出始めてきたのです。

 こうなると一番不幸なのは子供たちです。たった一回限りのテストでちょっとでも点数が悪いと、希望の学校や進学コースにに行けないかもしれないのです。
 とくに、言語能力に遅れのある子供たちには不当なハンディキャップとなります。認知的な能力がすぐれていても、たまたま言語能力が遅れているために、テストで力を発揮できないということがあるのです。言語の方は、2,3年もすれば追いついてくる。でも、その時には、もう決まったコースに入っていて取り返すのは大変、というようなケースがあるからです。
 また、オランダ人の子供であっても、体調が悪かったとか、家庭の事情で精神的に不安定であったとか、様々の理由で、学力試験で力を発揮できないこともあります。

 そういうわけで、このCITOtoetsに関しては、親からも、また、小学校の先生からも、あまり好意的には受け止められていませんでした。

 さらに、もう一つついでにいえば、CITOtoetsが2月に終わって3月に中学進学コースを決めてしまうと、もう、子どもたちに学習意欲がなくなってしまい、小学校の先生の方も、力が抜けてしまう傾向もありました。結局、最後の3か月ほどは、キャンプだとか、フランス語初歩コースだとか、ダンス教室だとか、どうでもよい行事ばかりが続く、、、

 まあ、そういうようなCITOtoetsをめぐるさまざまの事情を背景に、先週、「初等教育諮問委員会」という組織(代表は2年前まで教育監督局の局長だったコルヴェゼー女史)が、初等教育行政の代表責任者であるシャロン・デイクスマ教育文化科学省国務次官に対して、CITOtoetsの実施時期を、現行の2月から6月に遅らせるべきである、という諮問を出すことを明らかにしました。

 そして、デイクスマ国務次官は、これに対して、すぐに、この諮問を支持する方向で検討したい、という意思をプライムタイムのニュースの中で明らかにしています。諮問支持の理由は、そうすることによって、子供たちの進学コース決定にCITOtoetsという学力テストの結果が著しく大きな影響を与えることが無くなり、子供のストレスを軽減できること、また、この学力テストを学年末まで遅らせることによって、読みや算数の勉強を最後までしっかり続け、これまでのように、CITO toets以後の意欲の低下を防止できるから、というものです。

 この動きに対しては、早速、「全国保護者会」が、歓迎の意思表示をしました。「全国保護者会」の立場は、あくまでも、CITOtoets全面廃止です。保護者たちは、最終学年に1度だけ、テストの瞬間だけの学力を測って、子供たちの一生を決める進学コースの決定のための材料にすることに、反対しているのです。

 実際、現行の法律では、初等教育の期間、学校は、子供一人ひとりの発達経過を定期的に、客観的で信頼性のある方法によってモニターしなければならないと義務付けられています。実際、多くの学校は、CITOtoetsをつくっているCITOという組織が別に作っている「習熟度モニターテスト」を導入しており、それをもとに、子供たち一人一人の発達をモニターし記録しています。当然、そのほかに、子供たちの心理テスト、行動問題、学習障害などについての先生の観察や指導の経過や効果、学内・学外機関による専門的なサポートなどなどについても記録されます(当然これらの記録は、プライバシー保護のため、その子供の親にしか公表されません)。

 これだけの記録を取り、毎日子供の指導に当たっている先生が、その子供にとって最もふさわしい進路を知っているはずだ、という信頼、あるいは、期待があるのです。少なくとも、親たちも、一度限りのテストの点数ではなく、そういう長期的に発達を観察してきた教員のアドバイスのほうを尊重するということです。


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 学力テストを巡る専門家のアドバイス、担当行政官の対応、また、保護者の反応を見ていると、この国では、本当に、大人たちみんなが一緒になって「子どものためには何が最善か」という柱に沿って議論がなされていることがわかります。

 なぜ、それを安心してできるのでしょう?
 なぜ、「国のため」「社会のため」「経済発展のため」と言わず、「子どものため」と言っていられるのでしょう。

 それは、「子どものため」に、つまり、将来この国の社会を支えていく「小さな市民たち」にとって最善の道を選んでおくことが、やがて、その子供たちがこの社会を担っていく時に、最も安定した、最も希望のある社会を作る基礎になるという信頼を大人たちが皆持っているからです。

 結局のところ、(競争に、学力テストに)勝ったからエリートになり指導者になって、負けたから、「仕方なく」職業教育に行く、落ちこぼれても誰も気にも留めてくれない、という新世代を作っていると、しっぺ返しは、いずれそうやって作った社会そのものに戻ってくるのです。(そのいい例が今の日本です。若い人たちがみんな社会に背を向けている、、、不登校・自殺・殺人、そして、少しできる子供たちすら、政治には関心なく、運さえよければ海外に出ていってやるぞ、と思っている。こんな国では子供など育てられないと女性たちは子供を産むことさえやめてしまっています。)

 たった一度の試験の日、親が離婚騒動で落ち着いて勉強もできなかった子はどうでしょうか? たった一度の試験の日が、オランダに来てまだ1年にも経たない移民の子にはどんなに大きな苦痛でしょう? これらの子供たちは、もしも、この日のテストで一生を左右する進路を決められていたら、後でいったい誰にその不満を投げつければよいでしょうか? 不満を解消して、その国の社会に貢献しようという気持ちになるまでに、どれだけの回り道や努力やエネルギーが必要でしょうか?そういう回り道を踏む間に、いったいどんな性格が形成されるでしょう。

 未来の世代を築くには、この、大人たちによる、愛情のこもった、しかし、どの子に対しても公平で、人間的なガイダンスが必要なのです。 (自分の子さえよければよい、他人の子どもなど蹴落とせ、などという調子で子供を育てていれば、いずれ、その子供は、同世代の誰とも社会関係を結べずに、さびしい孤独の人生を送らなくてはならなくなるのです。)

 日本という国には、いまだに、先進国の中では例外的な「入試」があります。これほど非人間的で不公平で、機械で製品を振り分けるような無味乾燥な制度はありません。そして、これがあるために、子どもと子どもの間に、不必要な競争が生まれ、子供ばかりでなく、親たちの間にも協力的になれない雰囲気が生まれ、さらには、学校ごとの学力競争のために、教員たちは疲弊してしまっています。疲弊した教員には教育の専門家としての誇りを持つ余裕はなく、不安な親たちもそういう教員たちを信頼することができなくなっています。目の前に、まだ、若芽のように柔らかく温かい素直な心の子供たちが成長しているというのに、大人たちの方が温かい友好的な関係を築いて子どもの成長を見守ってやることができずにいます。

 一体、日本は、これからまだ何年、こんな非生産的で不幸な未来作りを続けていくのでしょうか。

 

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