オランダの教育がマスメディアで紹介されることも増え、日本からの視察や研修が今年になって殺到している。もとはと言えば、2007年に発表されたユニセフの調査報告で「オランダの子どもたちが、先進21か国中最も幸せ」という結果が出されたことに起因している。私は、世の中が、OECDの学力調査PISAで大騒ぎしていた時に、こちらの報告書を公の場で繰り返し繰り返し伝えていた。特に、「時々、またはいつも孤独を感じる」という子どもの比率が、先進諸国では、普通5=10%であるのに、日本では、29.8%にも達していること、他方、オランダでは、その数がわずか2.9%であることを、あちこちの講演で取り上げ、書物にも書いてきた。
しかし、そういうことに、やっと日本のマスメディアが関心を向けるようになったのは、昨年末から今年になってからだ。多分、東日本大震災後、人々が、これまでの社会のあり方に疑問を抱くようになってきたことが背景にあるのだろうと思う。また、そんな中で、ブータン国王が訪れるなどして、「幸福」への関心が高まったからなのだろう。
だが、2007年から5年を経た今、ヨーロッパは、世界金融危機を経て、さらに、ユーロ危機のさなかでもある。いずれの危機もうまく切り抜けてきたオランダではあるが、それでも、人々の生活、学校、子どもたちの育ちには、経済危機が大きな影を落とすようになっている。
そういう意味では、「子どもが世界一幸せなんだってね」と聞いてオランダを訪れる日本人と、現実のオランダが抱えている状況との間には、かなりのタイムラグが存在する。
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今月6日、オランダでは、各種の教員組合が中心となり、教員5万人参加のストライキが行われた。経済危機下で、ありとあらゆる社会問題が、学校という場に、縮図の様に浮き彫りになりつつあるからだ。
オランダでは、1994年、インクルージョン教育の基本原則を示した「サラマンカ宣言」の年に、「もう一度一緒に政策」によって、学習困難児の普通校での受け入れ態勢が整えられた。オランダのインクルージョン教育の第1ステップだ。その後、2000年代に入って、さらに「リュックサック政策」が導入され、<軽度の>心身障害を持つ子どもたちが、特殊教育校から、普通校に通えるための制度が整備された。全国統一の基準で障害の査定を行い、一人ひとりの子どもが、普通児の教育費以上に必要とする資金が計上され、それを背中に背負って、自分が生きたい普通校を選べるようになったのだ。
すでに、1994年から、普通校には、特別支援教師[IB教師]が置かれ、普通児も含め、すべての子どもの発達記録が義務付けられるようになっていた。マルチプルインテリジェンスの考え方が、全国の学校に敷衍していった背景でもある。すべての子どもには得意な面と不得意な面がある。それを、特別支援教師が記録し、どの子どもも、どの発達領域でも、右肩上がりの発達を維持できるように、という考えに基づいている。学級担任の先生は、半年ごとに行われる生徒発達モニターのデータを使って、生徒指導を工夫し、学級経営を改善し、必要であれば、外部の専門家のアドバイスを受けるシステムが作られた。
そういうシステムづくりの上に導入されたのが「リュックサック政策」だった。
そして、その延長上に、今年2012年には、「適応する教育」という名のもとに、すべての障がい児は、本人が希望すれば、普通校に入学できることになるはずだった。当然、学校側は、新制度の導入のために、新たな資金が支給されるものと期待していた。
しかし、世界同時金融危機とユーロ危機は、国の国際また財政赤字を増大させ、挙句に、移民排斥傾向で右傾化してしまった政権は、これまでの教育改革は、「カネばかりかかった割には効果が上がっていないのではないか」という議論まで持ち出して、教育費緊縮に乗り出した。
教員らのストの背景はそんなところにある。
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実際、この10数年のオランダの教育改革を見てみると、1994年以来継続して強化されて来たインクルージョンの流れの他に、2000年代、ヨーロッパに蔓延した「イスラム教排斥」を背景とした、シチズンシップ教育の義務化もあった。先住のオランダ人も、移民として入国してきた外国籍の子どもたちも、お互いに、互いの違いを受け入れ、尊重し合い、なおかつ、民主的な社会にアクティブに参加し、社会貢献する市民として育ってもらわなくてはならない、というわけだ。その後ろには、少子化で高齢化社会するオランダを将来にない支える人材・積極的に社会参加し働く労働者の育成、という目的も当然ある。「個」としての個性を認められ、自律して行動でき、しかもなお、尊重された子として社会参加できる市民、それが、シチズンシップ教育の目的だ。
そういう個別の能力、個性、考え方を尊重する教育は、点数で測れる学力だけに注目した学校からは生み出せない。
だが、グロバリゼーションは、オランダはじめ、ヨーロッパの先進諸国に「失業」という大問題ももたらしている。中国やインドなどの安い労働力が、これらの先進国から、職を奪っているのだ。しかも、中国でもインドでも、国際的な経済市場で活躍できる、英語ができる、しかも、学力面では選りすぐられたエリートが毎年何千人という単位で社会に進出してきている。潤沢な社会福祉で、貧富の差を抑制してきたヨーロッパ諸国が生き残るには、知識・技術で勝負し、世界水準で引けを取らない企業活動を維持していかなくてはならない。何億という人口を抱える中国やインドの国々から、選りすぐられたエリートが送られてくる中、それに負けない学力の子どもたちを育成しているのかどうか、、、、為政者としては、学校を叱咤激励せざるを得ない、というわけだ。
その結果、オランダでも、来年から、小学校最上学年での全国統一試験が「義務化」されることが決まった。しかも、その結果は、教育監督局のサイトで、学校単位に公表される。保護者は、大半は、学力という目に見える数値化された尺度に動かされやすい。「参加する市民」だの「社会性」だの「情緒の安定」だのと言った、人間として大切な資質は、多くは、数値化できないものであるのだが。
というわけで、学校は、①学力試験導入、②シチズンシップ教育、③障がい児への「適応する教育」と一度に取り組まならなくてはならないという状況に陥っている。子供はと言えば、一方で、競争するな、お互い尊重せよ、と言われつつ、日々、体験型のアクティビティをやる一方、学力向上のためにも叱咤激励される。
本当に優れた校長や教員チームがいる学校では、子どもたち一人ひとりに「自分の学習の仕方」を見出させ、できる子にもできない子にも、それぞれが継続して学力向上につながる刺激と場を与えている。だが、そんな学校は、少数派だ。誰にでもできるものではない。
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学校の教師たちの中には、社会の要請によってさまざまの能力を求められ、自分らしく自分のテンポで、ゆっくりと能力を開花させることができない子どもたちを「守り」「代弁」しようとする人は多い。教員のストライキは、そんな教師たちの思いの表れでもある。
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来年度からは「性教育」も義務付けられるのだそうだ。かつて、70年代ごろ、オランダの学校では「性教育」が当たり前だった。また、オランダ人の過程では、「性」についてオープンに語るのはごく普通のことだ。女性の人権は認められ、同性愛者の人権は、結婚が合法化されるまで認められるようになった。だが、そこに、再び、同性愛を「病気」扱いにしたり、同性愛者を差別罵倒するような、異なる文化背景の人々が社会問題化するようになった。異文化理解とはいえ、「人権」に関する問題は、法にまつわる問題であり、文化差のためだから、と受け入れるわけには、当然いかない。「性教育」再開、義務化の背景は、そんなところにある。
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「学力偏重」「競争」で疲弊し、幸福感を失った日本からは、今、オランダの70年代以降の「一人ひとりの子どもの人権を尊重した個別教育」への関心が高まっている。しかし、そういうオランダでは、政権が率先して「競争」「学力向上」を声高に叫んでいる。
日本からの視察・研修参加者には、そのあたりのからくりを、どうか見間違えないでほしい、と思う。いつの時代も、どの社会にも、為政者と教育者の間には、子どもの人権を介して、大きな軋轢がある。
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