そんな中で、特に紙数を割いて紹介したのが、この10年余りオランダで成功を収めてきたシチズンシップ教育プログラム『ピースフルスクール・プログラム』だ。ユトレヒトの教育サポート会社が市の補助金を得、ユトレヒト大学の研究も兼ねて開発したもので、現在、全国に600校余りの学校が採用している。ユトレヒト大学の研究者とは、2008年に、駐日オランダ大使館の主催で私が開催の準備をしたシンポジウムに招かれたミシャ・デ・ウィンター教授だ。この分野では世界的に知られた研究者だ。
この『ピースフル・プログラム』については、日本の読者からも関心が高く、ある組織が日本版を作りたいと全編翻訳を依頼してきた。プライバシーの保護のため、組織名は挙げないが、賢明な判断だし、私自身、この種のシチズンシップ教育を日本社会に取り入れることは急を要する課題であると考えて、拙著の中でも紹介していた。
いずれにしても、翻訳事業が始まったことで、オランダ語の堪能な日本人女性6名に下訳を依頼し、私自身が監訳作業を行う、という作業が、今年前半の課題となった。下訳をしてくれる女性たちからは、
「自分が小学校でこういう授業を受けていたら苦労しなかっただろうに」
「小学生のわが子に対する言葉のかけ方がわかるようになりました」
などと、訳の作業そのものが楽しくて仕方がない様子だ。
そうして、書くいう私も、プログラム全編をくまなく読む機会を得られて、またしても、ため息・吐息、日本との格差をどうすれば縮められるだろう、と正直言って途方に暮れる。
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こういう私たちの気持ちを少しでも多くの方に共有していただくために、「オランダの共生教育」の中ではあげていなかった授業の例、その一端を紹介してみたい。
これは、小学校4年生(オランダではグループ6)の第6回目の『ピースフルスクール」の授業の様子だ。
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子どもたちは、いつものようにサークルになって短い協働ゲーム[勝ち負けのないゲーム]をして授業に入る。
先生は、「さあ、今日はみんなで何を学ぶのでしょうか」と言いながら、40分程度の授業の流れを説明する。そうすることで、子どもたちが、受け身にではなく自立的に授業に参加できるというわけだ。
今日の授業のテーマは『意見の違いを尊重する』
ははーん、日本人だって、教科書に書かれた「字面」だけなら、わかっているさ、というだろう。とりわけ、有名大学の入試をすり抜けてきたエリートなんぞは、「ふん」と鼻にもかけないのかもしれない。でも、この授業は、それを、体感させるための授業だ。
教室には、先生が用意しておいた「賛成」「反対」「わからない」という3枚の大きなカードが教室の3か所に貼られている。
そして、まず、子どもたちに、何かの「意見表明」をグループを作って考えさせる。
「学校にはケータイを持ってきてはいけない」
「体育は男の子が得意な科目だ」
などといった、身近で他愛のないものでいい。
こういう、子供たちの意見が分かれそうないくつかの「意見表明」をリストに並べ、一つ一つ、子どもたちに「賛成」「反対」「わからない」のいずれかを選んで、そのボードがかかった場所に移動する。
もちろん、それまでの4歳からの授業の中で、「意見が違うこと」は「どちらが正しいとか正しくないということではない」ということを子どもたちは学んできている。ここでの授業は、そんなことより、自分自身が持っている意見が何かに気づくこと、その理由を自分の言葉で説明できることだ。だから、先生は、それぞれのボードに移動する子どもたちのうち、進んで手を上げる子供たちに「論拠は何か」と聞くことになっている。
また、これには唸るのだが、、、指導書の中には、先生に対して、多くの生徒が別の場所に行っているにもかかわらず、一人ででも自分の意見に従って多数に逆らって自分のボードを選ぶ子を「ほめよ」と言っていることだ。
こんな授業を、いったい、日本のどこの小学校がやっているだろう?
日本の、せめて「公立」小学校が、すべての日本の子どもたちに、こうしていてくれていたら、今頃日本のマスメディアの脆弱さに絶望することはなかっただろう、、政治家の議論が感情的な怒声のやり取りになるという醜悪さは避けられたことだろう。
「論拠」を子どもたち自身に発言させ、それに他の子どもたちが耳を傾ける。授業では、他の人の「論拠」を聞いて『意見を変えることは可能である』ことを子どもたちが徐々に学ぶことを目指しているという。
相当に意識の高い日本人ですら、他人が自分の意見に意義を差し挟んでくると「凝り固まったように」感情的になり、独善的な態度を取り始める人は少なくない。そして、それは、異なる意見の交換から、さらに次のレベルの新しい見解が生まれるという議論をすることによって得られる合意形成ダイナミズムの障害になる。
このわずか40分の授業の中で、わずか9歳の子どもたちは『意見の違い』は、育ちや信条、観点の違いなどからくるもので、違いがあることこそが大切、違いによって自分を外から見直すことができる、と学んでいる。
指導書は、教員たちに、機会をとらえて色々なことについての子どもたちの意見を尋ねよ、意見に違いがあることのプラス面を強調せよ、と教えている。
子どもたちへの授業のまとめは、下記の様に至極単純で明快だ。
- 意見は違うことがあります。
- 誰でも自分の意見を持つ権利があります。
- 自分の意見は変えることができます。
- 私たちは、一人ひとりの意見を尊重します。
と。
何でもかんでも教科書の字面だけで勉強させ、その結果を多肢選択や「線でつなぐ」いとも安易なテストで「できた」「わかっている」と済ませてしまう日本の学校。
そういう学校で、長年タテマエを頭に詰め込まされてきたエリートたちは、こういう文章を見ても驚かず、「当たり前」のことではないか、というのかもしれない。「できない子」とレッテルを貼られてきた子供や大人は、もとより『意見』を持つことさえしない。
だが、実は、そういう、教科書至上主義の文化が、子どもたちと大人とを現実の世界から遠ざけてきたのだ。社会に対して、熱くなれない人々を生んできたのではないのか。
学校は、「社会に出る前に、そこで生きていくための練習をする場だ」とミシャ・デ・ウィンター教授は言う。
これも、さもありなん、、、と日本人もうなづくことだろう。
けれど、日本の多くの人が「社会」と考えているのは、産業化時代の「企業社会のことでしかない。そこには、労働運動の権利もなければ、働けない人の権利もない。差別のない社会、環境との共生、仕事と家庭生活のバランスのある生き方、などは、日本の学校がこれまでイメージしてきたものではない。
最近、オランダを訪れた日本の教育学者がこういった。
「やっとよくわかりました。日本の学校は社会人として企業人の姿しか目にない。でも、オランダの学校は、社会人とは、『市民』になることなんですね」と。
ことあるごとに「立場」「らしさ」が前面に来る日本の社会。一市民であるより、OO会社の社員であることが家庭生活にも地域社会でもすべてに重くのしかかってくる社会。人間はまず、何よりも平等な「市民」であること、それを教えなければ、やがて、大人社会は「立場」と「らしさ」で責任をすり抜ける人たちばかりになる。
2004年以来伝え続けてきたオランダの教育に対する関心がようやく広がり始めている。そして、何が日本の教育にかけていたのか、それに気づき、皆、驚愕している。たった一人で、驚愕・狼狽しなくてもよくなっただけ、状況は好転してきた。
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『維新の会』とやらが、いかに「新しくない」かということだ。世の中の人気取りの「甘言」を振りまき、外国に目を向けず(グローバル時代のユニバーサルな価値観、異文化共生などに関心はなく)、日本の未来へのビジョン完璧にたたきつぶす勢力だということに、いったいどれだけの人が気付いていることだろう。
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